1693 朝鮮漁民 安龍福 その1
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/04 11:55 投稿番号: [9263 / 18519]
転写
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/
安龍福拉致事件 in 1693
韓国側が于山島を獨島(竹島)とする決定的な証拠として、朝鮮漁民・安龍福(アン・ヨンボク)の一連の行動がある。大谷・村川両家が鬱陵島への渡海許可を幕府から受け、同島で鬱陵島経営をしていた時代の1693年、鬱陵島で漁業をしていた米子の大谷家の漁師達は安龍福等と遭遇、領海侵犯の証拠として、安龍福と朴於屯(パク・オトン)の二人を拉致し、日本に連れ帰った。
この時、日本側の資料によれば、鬱陵島の近くには40余りの朝鮮人がいたとされる。一方、朝鮮側の文献によると、安龍福と朴於屯が連れ去られたのは、他の仲間は上陸して身を隠匿できたが、二人の下船が遅れたからで、それも日本の漁師達は、刀剣、鳥銃をもって両人を脅したのだという。これは日本側の鬱陵島渡海の目的の一つがトド猟でもあったため、大谷家の漁師達は、出漁の毎度に鳥取藩から鉄砲を拝借していたからである。
安龍福と朴於屯は1693年4月17日に捕まり、18日に鬱陵島を出船して4月20日には隠岐島に着き、そこで取調べを受けた後、米子には4月27日に到着している。鳥取藩は幕府に事の顛末(てんまつ)を告げ、幕府は朝鮮との交易が盛んであった対馬藩を通じ、朝鮮側に越境の取締りを厳にするよう要求することになった。 それは日本領として運営していた鬱陵島に、朝鮮人が出現し、日本側とトラブルを起こすようになったからである。日本側の漁具や施設を無断で使い、持ち去る者が出現したのだ。その顛末を述べた『七箇条返答書』には、「兼(かね)て此方より拵え置(こしらえおき)候(そうろう)、諸道具猟舟八艘、見え申さず候」と記されている。鎖国政策が厳格であった当時、幕府の許可を得て鬱陵島に渡って来ているので、この現実は黙示することが出来なかったのであろう。そこで彼らは朝鮮漁民に遭遇した時、領海侵犯の証拠として拉致し、鳥取藩に朝鮮側の不法行為を訴えたのである。
この拉致事件が起きた翌1694年、日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時、1481年に編纂された『東国輿地勝覧』の「弊邦江原道蔚珍縣に属島有り、鬱陵と曰う。本縣の東の海中に在り(中略)、本島峰巒(みねみね)の樹木、陸地より歴々と望見す」を引用して、鬱陵島は陸地より歴々と望見する事が出来ると言い、李朝は徳川幕府に鬱陵島から手を引くように伝えた。
上記を踏まえて戦後の韓国の発言を聞いて頂きたい。1954年9月25日付の「獨島領有に関する1954年2月10日付亜2第15號、日本外務省の覚え書きで日本政府が取った見解を反駁(はんばく)する大韓民国政府の見解」と題する韓国政府の公式見解では、上記に説明した『東国輿地勝覧』の文註と『世宗実録地理志』の文註から、「上記引用文の如く、于山島と武陵島(鬱陵島)の二島は、蔚珍縣の正東側の海に位置する別島である。さらにこの二島は互いに離れているが、それ程遠くないため、天気が良いと互いに望見することが出来る」と捏造解釈した。
戦後、竹島問題が日韓の争点となった際、韓国側は、『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を鬱陵島から見た竹島の記述とし、歴史的にも竹島は韓国領と主張していたが、1694年日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時には、その同じ『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を、陸地から鬱陵島が見えると解釈していた。この「歴々と見える」は、鬱陵島問題の時には鬱陵島を、竹島問題になると竹島の領有を証明する根拠にされていたのである。したがって、韓国側はとんでもない自己撞着(じこどうちゃく)を犯した事になる。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/
安龍福拉致事件 in 1693
韓国側が于山島を獨島(竹島)とする決定的な証拠として、朝鮮漁民・安龍福(アン・ヨンボク)の一連の行動がある。大谷・村川両家が鬱陵島への渡海許可を幕府から受け、同島で鬱陵島経営をしていた時代の1693年、鬱陵島で漁業をしていた米子の大谷家の漁師達は安龍福等と遭遇、領海侵犯の証拠として、安龍福と朴於屯(パク・オトン)の二人を拉致し、日本に連れ帰った。
この時、日本側の資料によれば、鬱陵島の近くには40余りの朝鮮人がいたとされる。一方、朝鮮側の文献によると、安龍福と朴於屯が連れ去られたのは、他の仲間は上陸して身を隠匿できたが、二人の下船が遅れたからで、それも日本の漁師達は、刀剣、鳥銃をもって両人を脅したのだという。これは日本側の鬱陵島渡海の目的の一つがトド猟でもあったため、大谷家の漁師達は、出漁の毎度に鳥取藩から鉄砲を拝借していたからである。
安龍福と朴於屯は1693年4月17日に捕まり、18日に鬱陵島を出船して4月20日には隠岐島に着き、そこで取調べを受けた後、米子には4月27日に到着している。鳥取藩は幕府に事の顛末(てんまつ)を告げ、幕府は朝鮮との交易が盛んであった対馬藩を通じ、朝鮮側に越境の取締りを厳にするよう要求することになった。 それは日本領として運営していた鬱陵島に、朝鮮人が出現し、日本側とトラブルを起こすようになったからである。日本側の漁具や施設を無断で使い、持ち去る者が出現したのだ。その顛末を述べた『七箇条返答書』には、「兼(かね)て此方より拵え置(こしらえおき)候(そうろう)、諸道具猟舟八艘、見え申さず候」と記されている。鎖国政策が厳格であった当時、幕府の許可を得て鬱陵島に渡って来ているので、この現実は黙示することが出来なかったのであろう。そこで彼らは朝鮮漁民に遭遇した時、領海侵犯の証拠として拉致し、鳥取藩に朝鮮側の不法行為を訴えたのである。
この拉致事件が起きた翌1694年、日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時、1481年に編纂された『東国輿地勝覧』の「弊邦江原道蔚珍縣に属島有り、鬱陵と曰う。本縣の東の海中に在り(中略)、本島峰巒(みねみね)の樹木、陸地より歴々と望見す」を引用して、鬱陵島は陸地より歴々と望見する事が出来ると言い、李朝は徳川幕府に鬱陵島から手を引くように伝えた。
上記を踏まえて戦後の韓国の発言を聞いて頂きたい。1954年9月25日付の「獨島領有に関する1954年2月10日付亜2第15號、日本外務省の覚え書きで日本政府が取った見解を反駁(はんばく)する大韓民国政府の見解」と題する韓国政府の公式見解では、上記に説明した『東国輿地勝覧』の文註と『世宗実録地理志』の文註から、「上記引用文の如く、于山島と武陵島(鬱陵島)の二島は、蔚珍縣の正東側の海に位置する別島である。さらにこの二島は互いに離れているが、それ程遠くないため、天気が良いと互いに望見することが出来る」と捏造解釈した。
戦後、竹島問題が日韓の争点となった際、韓国側は、『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を鬱陵島から見た竹島の記述とし、歴史的にも竹島は韓国領と主張していたが、1694年日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時には、その同じ『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を、陸地から鬱陵島が見えると解釈していた。この「歴々と見える」は、鬱陵島問題の時には鬱陵島を、竹島問題になると竹島の領有を証明する根拠にされていたのである。したがって、韓国側はとんでもない自己撞着(じこどうちゃく)を犯した事になる。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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