竹島

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>世宗実録を検証 その2

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/04/21 11:12 投稿番号: [8773 / 18519]
6年5月   金漢京ら三峰島を見るも上陸せず。(成宗2年にも一度漂着したことあり。)
7年9月   金自周・金漢京ら三峰島を見るも上陸せず。
   注2)『成宗実録』(巻68)成宗7(1476)年6月癸巳條
      下書永安道觀察使李克均曰 今見卿啓 知鏡城金漢京等二人 辛卯五月
      漂泊三峰島 與島人相接 又於乙未五月 漢京等六人 向此島 距七八里許
      望見阻風 竟不得達 此言雖不可信 亦或非妄 今宜別遣壮健可信人三人 同漢京等入送捜覓
(注3)『成宗実録』(巻72)成宗7(1476)年10月丁酉條
      兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峰島尋覓事 遣自周及宋永老
      與前日往還 金興 金漢京 李吾乙亡等 十二人 給麻尚船五隻入送 去九月一六日
      於鏡城地瓮仇味 發船向島 同日到宿富寧地青巌 一七日 到宿會寧地加麟串
      一八日到宿慶源地末應大 二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立
      次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人形
      別立者三〇 因疑惧 不得直到 畫島形而來 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發船遭風
      不得直到 今漢京等 發船於鏡城瓮仇味 再由此路出入 至畫島形而來 今若更往
      可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之

      【成宗実録72巻 成宗7年10月壬辰条】
      永安道観察使李克均馳啓   永興人金自周言往見三峯島   且図其形送自周以進  
      命問之自周対曰、於鏡城海浜   乗舟行四昼三夜   見島屹然而有人三十余列立  
      島口有烟気   其人衣白形貌遠不能詳   然其大?乃朝鮮人也   惧見執不能進也   賜襦衣二領


10年9月   曹衛を三峰島敬差官に。
10年10月   曹衛に金自周・金漢京らも同行することに。
10年10月   曹衛ら出港も、風が悪く、帰港。再び出港も一ヶ月経っても帰らず。
10年12月   金漢京ら帰還。金漢京、風を理由に三峰島に行きたがらなくなる。
11年2月   三峰島招撫使に鄭錫禧、副使に朴宗元任命。
11年2月   三峰島招撫使に鄭錫禧、三峰島行きを渋って罰を受ける。左遷。
11年2月   副使朴宗元、病を理由に三峰島行きを渋って、左遷。その後、招撫使は沈安仁に。
11年5月   沈安仁の探査を王が風を理由に停止させる。
12年1月   永安道観察使が30人の自願者による探査を提言。王が受け入れる。
12年2月   募集した人が三峰島に持っていく諭書を与える。おそらく自願者は出港したはず。これにて、三峰島に関する記録は終了。
13年2月   「乱心逆賊」である金漢京の娘を奴婢に。

東國輿地勝覧   PDFで57ページ目『新増東国輿地勝覧』 巻45 江原道蔚珍県山川条

(三峰島…アヒル注)前者往来者 或云遥見 或云不得見 莫辨真偽 今也 遣人捜覓
如終無此島 則将初発言金漢京輩 明其 語惑衆之罪 置之極刑 伝屍一道 以示衆目
則愚民亦知三峯島之必無 而其胥動之惑 自解.(成宗実録:成宗12年、永安道監察使)

以上の資料から、私は、当時の朝鮮政府は獨島認識を否定
し、しかし、民間ではあいまいなかたちで存在したと今のところ考えています。
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