Am_I_AHO_1stさんへ
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/04/08 20:19 投稿番号: [8451 / 18519]
不戦親父です。
あれ?
Am_I_AHO_1stさんは東國輿地勝覧の
歴々可見のテキスト
を獨島認識とされるんですか?
それなら、絶望されない理由はわかりますが、その読みは、
あまりにも無理ですよ。
それから、半月城氏の解釈でもアヒル氏の解釈でも70年には
獨島認識は無いんです。1島説ですからね。
1回目の探検もそれをもとになされているのです。
そして世宗実録完成と1回目の探検は同年であり、下手をすると
探検前に完成してますね。成宗実録をさがしたのですがさが
しきれずに月日は特定出来ませんでしたが。
探検隊は正確に言えば逃亡国民回収隊です。
つまり鬱陵島を三峯島だと思って到達したところ住居の痕跡を見つけた
のであれば、別の島の存在を想定する方が実はおかしいのです。
住民が捕まらなかったから再度の回収隊が必要になるのです。
ましてや、70年の段階で獨島認識がないものを、72年の段階でど
うして獨島認識を入れられるのですか?
誰が距離を測ったのですか?
書式フォーマットの点、アリバイの点、
どちらをとっても成宗実録に獨島認識があるとするのはほとんど無理です。
どうやら二島あるらしいが、お互いに近くだ、そして半島から見える
と読むのが妥当です。
結局東國輿地勝覧の段階でも、一島説
二島説あり、決着はついてないのです。
しかも二島説の二島とは木や渚が見える距離なのです。
つまり、成宗実録にも東國輿地勝覧にも、私が論じてきたテキスト部分では
獨島認識の可能性は痕跡すらないと私は判断します。
ただし、三峯島探検の間に到達した可能性はまだ否定しません。
島の叙述を見る限りそれなりの説得力があります。
そのほか、半月城氏の解釈をとっぱらって、一次資料の該当箇所を見たいのですが、
実録の一月分の中からさがすだけでも大変で、時間がかかっております。
これは メッセージ 8441 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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