週刊新潮の「竹島」記事を批判する3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/04/03 09:09 投稿番号: [8298 / 18519]
その結果、幕府は竹島が朝鮮領の鬱陵島であることを認めて、日本人の竹島渡海を禁止することになるのであるが、ここでの決定について 30年後の1724年(享保9)に鳥取藩がまとめた「竹島渡海禁止 並 渡海沿革」には、次のように記している。
・・・(省略)・・・
なお、川上健三も竹島・松島が鳥取藩所属でないとしていることは「けだし当然」といっている。ただしその理由とするところは、竹島渡海事業が官許の公務であり、鳥取藩が直接関係していなかったためであるというが(川上前掲書,P84)、これは事実ではない。
渡海免許も渡海禁止も幕府から鳥取藩主に出されており、鳥取藩としても毎年の渡海にあたって米や鉄砲の貸付をしていたのであるから、幕府直轄で鳥取藩は関係がなかったから、竹島・松島は因伯付属の島ではないと回答したのは「当然」とするわけにはゆかない。
鳥取藩領と思われていた竹島、そして松島について、鳥取藩としては自らに附属する島ではないといったのである。
領主なき土地はないのが封建社会の原則であるから、日本領土ではないといったことになる。下條正男の近著『竹島は日韓どちらのものか』には、このことについての言及がない(注1)。
原著注、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院、1966年)
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下條正男氏の近著に鳥取藩の回答書が記されていないのは、けだし当然かも知れません。その史料からは竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)は日本の領土でないという結論がおのずから導かれるので、何としてでも竹島=独島を日本領にしたい一念の同氏は、それを無視せざるをえなかったのでしょうか。
この鳥取藩の回答書こそ、竹島=独島が日本の領土ではないとする「決定的証拠」ではないでしょうか。
『週刊新潮』(05.3.31)P33
> 田村氏は遺作の中で韓国側の主張を次々と論破している。
先ず、于山島または三峯島と呼ばれていたのは竹島ではなく、鬱陵島だったと指摘している。それは『三国史記』(1145年)など多くの文献が于山国とは鬱陵島のことであり、三峯島も鬱陵島の別称だと明記しているからだという。
15世紀、朝鮮の正史である『世宗実録』地理志に東海の島が江原道蔚珍県条にこう記されました(注2)。
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である(注3)」
朝鮮王朝はおおむね鬱陵島(武陵島)と于山島をこのように理解していたのですが、古く日本の江戸時代以前は、東海の絶海にある島が本当に二島なのか、また于山島はどこにあるのかなど、空島政策をとっていたことも手伝って、必ずしも十分に把握をしておらず、于山島やうわさの三峯島探索などをめぐってしばしば混乱しました。
こうした問題をクリアーにしたのが「輿地志」(1656)やそれを引用した文献でした。現在「輿地志」は現存しませんが、その引用文が下記のような史書に残されました。
(1)『疆界考』(1756)
「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに
二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注4)」
(つづく)
・・・(省略)・・・
なお、川上健三も竹島・松島が鳥取藩所属でないとしていることは「けだし当然」といっている。ただしその理由とするところは、竹島渡海事業が官許の公務であり、鳥取藩が直接関係していなかったためであるというが(川上前掲書,P84)、これは事実ではない。
渡海免許も渡海禁止も幕府から鳥取藩主に出されており、鳥取藩としても毎年の渡海にあたって米や鉄砲の貸付をしていたのであるから、幕府直轄で鳥取藩は関係がなかったから、竹島・松島は因伯付属の島ではないと回答したのは「当然」とするわけにはゆかない。
鳥取藩領と思われていた竹島、そして松島について、鳥取藩としては自らに附属する島ではないといったのである。
領主なき土地はないのが封建社会の原則であるから、日本領土ではないといったことになる。下條正男の近著『竹島は日韓どちらのものか』には、このことについての言及がない(注1)。
原著注、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院、1966年)
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下條正男氏の近著に鳥取藩の回答書が記されていないのは、けだし当然かも知れません。その史料からは竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)は日本の領土でないという結論がおのずから導かれるので、何としてでも竹島=独島を日本領にしたい一念の同氏は、それを無視せざるをえなかったのでしょうか。
この鳥取藩の回答書こそ、竹島=独島が日本の領土ではないとする「決定的証拠」ではないでしょうか。
『週刊新潮』(05.3.31)P33
> 田村氏は遺作の中で韓国側の主張を次々と論破している。
先ず、于山島または三峯島と呼ばれていたのは竹島ではなく、鬱陵島だったと指摘している。それは『三国史記』(1145年)など多くの文献が于山国とは鬱陵島のことであり、三峯島も鬱陵島の別称だと明記しているからだという。
15世紀、朝鮮の正史である『世宗実録』地理志に東海の島が江原道蔚珍県条にこう記されました(注2)。
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である(注3)」
朝鮮王朝はおおむね鬱陵島(武陵島)と于山島をこのように理解していたのですが、古く日本の江戸時代以前は、東海の絶海にある島が本当に二島なのか、また于山島はどこにあるのかなど、空島政策をとっていたことも手伝って、必ずしも十分に把握をしておらず、于山島やうわさの三峯島探索などをめぐってしばしば混乱しました。
こうした問題をクリアーにしたのが「輿地志」(1656)やそれを引用した文献でした。現在「輿地志」は現存しませんが、その引用文が下記のような史書に残されました。
(1)『疆界考』(1756)
「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに
二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注4)」
(つづく)
これは メッセージ 8297 (hangetsujoh さん)への返信です.
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