竹島

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週刊新潮の「竹島」記事を批判する2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/04/03 09:05 投稿番号: [8297 / 18519]
   元禄時代、鬱陵島で日朝の漁民は二度はち合わせしましたが、それが機になり、日朝間で「竹島一件」とよばれる外交交渉が行われました。その経過を内藤正中氏はこう記しました。
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3.松島は因幡 伯耆附属には無御座候
   無人島であると思い込んでいた竹島(鬱陵島)で、初めて朝鮮人に出会うのは 1692年(元禄5)である。この年は53人が来ていたが、日本側は21人の少数であったので争うことはしないで、朝鮮人が作っていた串鮑のほか、笠、網頭巾、こうじ味噌を持ち帰って藩庁に届け出た。
   江戸の藩邸から幕府に対処方法を紹介したところ、すでに朝鮮人が退去しているとすれば、「何の構もこれなく」という回答であった。

   翌1693年、40人の朝鮮人が来ていた。そのなかの2人を捕えて米子に連行した。安龍福と朴於屯の両名で、米子で2か月にわたる取調べの後、幕府の指示で長崎奉行所に送られ、対馬藩により帰国させた。ついでに幕府は、対馬藩に命じて竹島は日本領であるから朝鮮人は出漁しないよう禁止措置をとることを朝鮮国に要請させた。
   この時 対馬藩が朝鮮王朝に宛てた文書には「本国竹島」と記して、日本領土の島であるという認識を示していた。また対馬藩の『朝鮮通交大紀』にも、1693年に朝鮮人が「我隠州竹島に来り」と、竹島が鳥取藩に所属するということを表明している。

   これに対する朝鮮側は、「倭人 所謂(いうところの)竹島、即 我国鬱陵島」と、一島二名であるといって朝鮮領であることを主張した。
  「竹島一件」といわれている日朝間の外交交渉は、釜山の倭館を舞台に3年間つづけられた。そして1696年(元禄9)1月28日に、幕府が老中4名の連署でもって、「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」と、鳥取藩主に竹島渡航禁止令を達したのである。

   この達は、たしかに竹島への渡海を禁止しただけである。このことから、幕府は竹島の領有権を放棄したのではないという説もあるが、3年間にわたる日韓外交交渉が、竹島の領有権をめぐるものであった以上、そうした説は無意味である。竹島が朝鮮領の鬱陵島であることを幕府も認めることによって、竹島一件は決着したのである。
   その場合、松島(現竹島)はどうであったかが残る。しかし、もともと松島については、竹島に附属する島という理解で特段の取扱いはしてこなかった。そうである以上、松島について言及する必要もなかったのである。

   さらに幕府の決定に重大な影響を与えたと思われる鳥取藩の1695年(元禄8)12月25日付の文書がある。これは、前日の24日に幕府老中 阿部豊後守からの質問に対する鳥取藩の回答書である。
   幕府から鳥取藩への質問は7か条で、その第1に「因州 伯州え付候 竹島はいつの此より両国の附属候哉、先祖領地 被下候以前よりの儀 候哉」とあり、幕府としては、竹島が因幡 伯耆を支配する池田藩に所属する島と考えていたことがわかる。したがって、いつから因伯の領地になったかと問いかけるのである。

   これに対する鳥取藩の回答は、「竹島は因幡 伯耆附属には無御座候」であった。
   さらに第7項には、「竹島の外 両国え附属の島 有之候哉、並是又 漁採に両国の者 参候哉」との質問がある。これに対する鳥取藩の回答では、「竹島 松島其外 両国之附属の島 無御座候事」と、竹島とともに松島についても、因伯両国に附属するものでないことを明言した。
(つづく)
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