竹島

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週刊新潮の「竹島」記事を批判する4

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/04/03 09:10 投稿番号: [8299 / 18519]
(2)『東国文献備考』「輿地考」(1770)
  「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島
なり(注5)」

   このように、東海には鬱陵島と于山島の二島があり、于山島は日本でいう松島であるとの認識が次第に確立しましたが、その背景には上に述べたた安龍福の言動が大きな影響を与えていました。
   安は 1693年「竹島一件」の際、鬱陵島において日朝漁民が二度目にはち合わせしたとき、同島から日本へ連行されましたが、その時、かれは竹島=独島を経て鳥取藩へ来ました(注6)。
   竹島=独島を実見し、それが日本でいう松島であることを理解している安龍福は、1696年、今度はみずから鳥取藩へ抗議活動にやって来てきました。その時、かれは船に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげました。
   これは日本では「朝鬱両島ハ 鬱陵島 日本ニテ是ヲ竹島ト称ス 子山島 日本ニテ松島ト呼フ」と理解されました(注7)。子山島は于山島の書き間違いとされます。

   安の訴えは竹島一件をめぐる日朝の外交交渉自体にほとんど影響を与えませんでしたが、安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えました。それは、日本でいう当時の竹島は朝鮮の鬱陵島であり、松島は于山島であり、ともに朝鮮領という認識を日本および朝鮮政府に定着させました。
   朝鮮では、于山島は日本でいう松島であるとの認識が官撰書である『万機要覧』(1808)、『増補文献備考』(1908)などに引き継がれました(注8)。

   日本では「竹島一件」の結果は、明治時代になって再確認されました。内務省から鬱陵島と竹島=独島の取り扱い伺が出されたとき、国家の最高機関たる太政官は、竹島外一島、すなわち鬱陵島と竹島=独島は本邦に関係なしとする指令を1877年(明治10)に通達しました(注9)。このとき、明治政府は竹島=独島を放棄したことになります。
   こうした竹島=独島の認識は内務省や太政官のみならず、外務省でも同様でした。外国の誤った地図の影響で外務省内に松島・竹島について島名の混乱が起きたとき、公信局長の田辺太一は、松島が于山島であると正しく理解して下記のように記しました。

  「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ」

   このように明治政府の関連機関は、竹島=独島は朝鮮領であると認識していましたが、日露戦争が起きるや、帝国主義的施策が台頭しました。戦争でロシアの艦隊を監視するため、竹島=独島に軍事目的の望楼を建てる必要が生じたからでした。
   政府は、漁師・中井養三郎から出された「リヤンコ島(竹島=独島)貸下願」を機に、竹島=独島を「無主地」であるとこじつけ、閣議で同島を竹島と命名し、ついに領土編入を決定しました。
   この時、朝鮮との事前協議など一切なく、また官報による公示もなく、こっそり行われました。公表は島根県告示という形をとりました。これでは、朝鮮が気づくのはとうてい無理なのはいうまでもありません。
(つづく)
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