竹島

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週刊新潮の「竹島」記事を批判する1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/04/03 09:03 投稿番号: [8296 / 18519]
   半月城です。
   メーリングリスト[aml]に投稿した文を転載します。

  『週刊新潮』には驚かされます。記事<「竹島」WARS!> において、小見出しに<竹島は「日本の領土」という決定的証拠の「古文書」>と仰々しくあるので、話半分にしてもさぞかし有力な証拠の古文書が出てきたのかなと期待していました。
   ところがどうでしょうか。「決定的証拠」の古文書とは大谷家の「竹島渡海由来記 抜書控」のみでした。この文書は、漁猟のために竹島(今日の鬱陵島)へ渡海していた大谷九右衛門が書いたもので、その内容は信頼性に欠け、とうてい「決定的証拠」になるような代物ではありません。

   実際、その内容ときたら、大谷家は江戸幕府から竹島を「拝領」したとか、さも領主になったかのような虚言を弄しており、信憑性がありません。史実は、大谷家と村川家が鳥取藩を通じて幕府から竹島(鬱陵島)への渡海免許をもらったにすぎません。
   当時は町人が幕府から領地を拝領できるはずもありませんし、それを裏づける資料などもちろんありません。そんな誇張に満ちた大谷家の文書を引用して同誌はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『週刊新潮』(05.3.31)
   江戸時代初期、日本では竹島を松島、鬱陵島を竹島と呼んでいた。「竹島渡海由来記 抜書控」という古文書は、元和4年(1618年)以降、伯耆藩(鳥取)の大谷・村川両氏が江戸幕府から両島を拝領し、鮑、アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行っていたことが記されている。
   この古文書に加え、1724年の古地図(伯耆藩差出 竹島図)などを収めた『島根県竹島の新研究』という書物が昭和40年に刊行されていた。著者は元島根県職員の田村清三郎氏で、昭和43年に54歳で他界した。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   日本の古文書に関する説明はたったこれだけです。そこには日本政府が日本領の根拠にしている古文書すら登場しません。新潮社にとってもそれらの古文書は根拠が薄く、無用の長物なのでしょうか。
   ともかく「竹島渡海由来記 抜書控」のみを「決定的証拠」とセンセーショナルに書く週刊誌の商業主義にはあきれるばかりです。

   しかも、上記の記事は歴史にうとい人が書いたようで、文中に「伯耆藩」とありますが、江戸時代に伯耆国はあっても「伯耆藩」は存在しませんでした。これを見ても、書き手は竹島=独島問題をほとんど理解していないのが赤裸々です。
   記事はそんなレベルなので、編集者が「竹島渡海由来記 抜書控」の史料価値をわからないのも無理はありません。その史料は領有権論争にはほとんど役立たず、そのため日本政府はその史料を知っていても、かつて韓国との竹島=独島論争においてはそれを引用すらしませんでした。とても「決定的証拠」にはなりえません。
   その史料を、単に元禄時代までに大谷家などが松島(竹島=独島)で経済活動を行っていた証拠とするのならともかく、これは「固有領土」の証拠にはほど遠い、箸にも棒にもかからない古文書です。

   つぎに、記事は書かれていることも重要ですが、何が書かれていないのかも時には重要です。特に竹島=独島問題の場合、多くの人は自分の結論に不利になるような重要史料を意図的に無視しがちです。
  『週刊新潮』の記事もそうした観点から見る必要があります。記事は大谷家などの経済活動がその後どうなったのか記していませんが、そこに竹島=独島問題の本質が隠されています。記事がそれを書くと「日本の領土」説はあやしくなりそうなので、週刊誌では取りあげなかったのでしょうか。それを具体的にみることにします。
(つづく)
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