日本の竹島=独島領土編入と放棄2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/12 09:55 投稿番号: [681 / 18519]
一
江戸時代の「竹島一件」
現在の竹島=独島が記述された日本の古い文献は、一六六七年に編纂された出雲藩士斎藤豊仙の『隠州視聴合記』が初出である。それ以降の記録によると、現在の竹島=独島は江戸時代を通じて松島と呼ばれた。同様に鬱陵島は竹島あるいは磯竹島とよばれた。島根県隠岐の沖合にあるこの二島は、明治時代末期にお互いの島名が入れ替わるなど、相当な混乱を呈してきた。整理のために島名の変遷を書くと次のようになる。
鬱陵島 江戸時代ー竹島、まれに磯竹島。明治時代ー竹島および松島を混用。一九〇五年以降は次第に鬱陵島。
竹島=独島 江戸時代ー松島。明治時代(一九〇五年以前)ー松島あるいはリアンコールト、リアンクール、リヤンコ、ホルネットなどを混用。一九〇五年以後ー竹島。
この稿における両島の呼び名であるが、史料との関連を重視して各時代の島名をそのまま使用することにする。ただし混乱を避けるため、現在の島名を適宜カッコ内に補足する。
古来、松島、竹島の両島は、天候などの条件さえよければお互いに望見できることもあって歴史的に密接な関係にあった。松島の名前からして、松の木どころか1本の木もない岩嶼にもかかわらず江戸時代にそう呼ばれたのは、竹島と一対になっているという意識のゆえであろう。そうした意識にもとづく表現は諸史料で散見される。その典型例は、後述するように明治時代における内務省の文書や太政官指令である。そこでは松島(竹島=独島)は竹島(鬱陵島)とひとくくりに「竹島外一島」と表現され、一緒に版図外として放棄された。このように、松島は歴史的に竹島と密接な関係にあるので、まずは日朝関係史における竹島の重要事件からみることにする。
元禄時代、竹島(鬱陵島)をめぐって、日本と朝鮮の間に領土紛争、いわゆる「竹島一件」が生じた。これは元禄時代に竹島の領有をめぐって七年間にわたり両国間で争われた外交案件である。この交渉結果が明治時代になって「竹島外一島」の放棄に決定的な影響を与えた。
事件の発端は、一六九二(元禄五)年、江戸幕府の渡海免許を受けて竹島に出漁した大谷、村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから始まった。このとき、両家は人数のうえで劣勢だったので早々に引き揚げて鳥取藩に報告した。この処理をめぐって鳥取藩から対処方法を問われた幕府は、すでに朝鮮人が竹島から退去したとすれば「何の構えも無之」と回答をして、特に問題にしなかった。
翌年も両家が竹島へ行くとやはり朝鮮人が来島していた。そこで二名の朝鮮人を米子へ連行して帰った。ひとりは後年、鬱陵島、子山島(于山島)は朝鮮領であると訴えるため日本を来訪した安龍福であった。報告をうけた鳥取藩は、幕府に朝鮮人が来島しないよう朝鮮に申し入れをすることを要請した。幕府は、対朝鮮交渉の窓口であった対馬藩の宗氏をつうじて朝鮮人の竹島への出漁禁止を朝鮮に申し入れ、両国の領土をめぐる外交交渉が本格的に始まった。
日本の申し入れにたいし、朝鮮は日本との友好を重んじ、穏便に解決をはかる方針で交渉に臨んだ。しかし、交渉が長引く間に朝鮮の方は領議政が替わり、交渉方針を強硬姿勢に転じた。九五年、竹島はすなわち鬱陵島であり朝鮮領に属するとした次のような趣旨の返書を対馬藩へ送った。
「我国の江原道蔚珍県に属島があり、鬱陵島という。東海にあり風濤が危険で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣して調査させていた。
このたび我が漁民が島に行ってみたところ、貴国人が越境侵犯して島に来て、逆に我が漁民二人を捕らえて江戸に送った。
幸いに貴国の将軍は事情を察し、厚いもてなしをした上で送り返してくれた。交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が漁民が猟をしていたところは、もともと朝鮮の領土である鬱陵島であり、竹を産するので竹島といわれており、一島二名である。
鬱陵島については、ただに朝鮮の書籍に見られるだけでなく、貴国日本の人も知っている。それにもかかわらず、書中で竹島は日本領であり、朝鮮の漁船の往来を禁止しようとして、日本人が我が朝鮮の領土を侵犯したことを問題にしないで、逆に我が漁民を拘束したことは間違っており、誠信の道に欠けるところがあると思う。
深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、日本辺海の人が鬱陵島に渡海して再び事件が起こらないように命じてほしい(5)」
(つづく)
現在の竹島=独島が記述された日本の古い文献は、一六六七年に編纂された出雲藩士斎藤豊仙の『隠州視聴合記』が初出である。それ以降の記録によると、現在の竹島=独島は江戸時代を通じて松島と呼ばれた。同様に鬱陵島は竹島あるいは磯竹島とよばれた。島根県隠岐の沖合にあるこの二島は、明治時代末期にお互いの島名が入れ替わるなど、相当な混乱を呈してきた。整理のために島名の変遷を書くと次のようになる。
鬱陵島 江戸時代ー竹島、まれに磯竹島。明治時代ー竹島および松島を混用。一九〇五年以降は次第に鬱陵島。
竹島=独島 江戸時代ー松島。明治時代(一九〇五年以前)ー松島あるいはリアンコールト、リアンクール、リヤンコ、ホルネットなどを混用。一九〇五年以後ー竹島。
この稿における両島の呼び名であるが、史料との関連を重視して各時代の島名をそのまま使用することにする。ただし混乱を避けるため、現在の島名を適宜カッコ内に補足する。
古来、松島、竹島の両島は、天候などの条件さえよければお互いに望見できることもあって歴史的に密接な関係にあった。松島の名前からして、松の木どころか1本の木もない岩嶼にもかかわらず江戸時代にそう呼ばれたのは、竹島と一対になっているという意識のゆえであろう。そうした意識にもとづく表現は諸史料で散見される。その典型例は、後述するように明治時代における内務省の文書や太政官指令である。そこでは松島(竹島=独島)は竹島(鬱陵島)とひとくくりに「竹島外一島」と表現され、一緒に版図外として放棄された。このように、松島は歴史的に竹島と密接な関係にあるので、まずは日朝関係史における竹島の重要事件からみることにする。
元禄時代、竹島(鬱陵島)をめぐって、日本と朝鮮の間に領土紛争、いわゆる「竹島一件」が生じた。これは元禄時代に竹島の領有をめぐって七年間にわたり両国間で争われた外交案件である。この交渉結果が明治時代になって「竹島外一島」の放棄に決定的な影響を与えた。
事件の発端は、一六九二(元禄五)年、江戸幕府の渡海免許を受けて竹島に出漁した大谷、村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから始まった。このとき、両家は人数のうえで劣勢だったので早々に引き揚げて鳥取藩に報告した。この処理をめぐって鳥取藩から対処方法を問われた幕府は、すでに朝鮮人が竹島から退去したとすれば「何の構えも無之」と回答をして、特に問題にしなかった。
翌年も両家が竹島へ行くとやはり朝鮮人が来島していた。そこで二名の朝鮮人を米子へ連行して帰った。ひとりは後年、鬱陵島、子山島(于山島)は朝鮮領であると訴えるため日本を来訪した安龍福であった。報告をうけた鳥取藩は、幕府に朝鮮人が来島しないよう朝鮮に申し入れをすることを要請した。幕府は、対朝鮮交渉の窓口であった対馬藩の宗氏をつうじて朝鮮人の竹島への出漁禁止を朝鮮に申し入れ、両国の領土をめぐる外交交渉が本格的に始まった。
日本の申し入れにたいし、朝鮮は日本との友好を重んじ、穏便に解決をはかる方針で交渉に臨んだ。しかし、交渉が長引く間に朝鮮の方は領議政が替わり、交渉方針を強硬姿勢に転じた。九五年、竹島はすなわち鬱陵島であり朝鮮領に属するとした次のような趣旨の返書を対馬藩へ送った。
「我国の江原道蔚珍県に属島があり、鬱陵島という。東海にあり風濤が危険で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣して調査させていた。
このたび我が漁民が島に行ってみたところ、貴国人が越境侵犯して島に来て、逆に我が漁民二人を捕らえて江戸に送った。
幸いに貴国の将軍は事情を察し、厚いもてなしをした上で送り返してくれた。交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が漁民が猟をしていたところは、もともと朝鮮の領土である鬱陵島であり、竹を産するので竹島といわれており、一島二名である。
鬱陵島については、ただに朝鮮の書籍に見られるだけでなく、貴国日本の人も知っている。それにもかかわらず、書中で竹島は日本領であり、朝鮮の漁船の往来を禁止しようとして、日本人が我が朝鮮の領土を侵犯したことを問題にしないで、逆に我が漁民を拘束したことは間違っており、誠信の道に欠けるところがあると思う。
深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、日本辺海の人が鬱陵島に渡海して再び事件が起こらないように命じてほしい(5)」
(つづく)
これは メッセージ 680 (hangetsujoh さん)への返信です.
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