江戸時代の竹島(鬱陵島)「編入」2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/10 22:41 投稿番号: [662 / 18519]
ところで「日本の西北の限り」をめぐる日韓の論争ですが、今までは両国の解釈を補強する材料が双方ともなく平行線のままでした。
ここで補足ですが、同書で「高麗を見るに雲州より隠州を望むごとくである」とあるので、一見すると高麗を見ている竹島・松島は朝鮮の地ではないという解釈が成り立つようにみえます。しかし、高麗は滅んでから300年近くたつので、同書でいう高麗はもちろん国の名前ではありません。朝鮮本土くらいの軽い意味です。
さて、平行線であった両国の解釈にヒントとなる資料が 今は閉鎖されてしまった LYCOS掲示板で提示されました。水戸黄門こと水戸光圀が編纂を始めた水戸藩の『大日本史』です。同書は竹島・松島を次のように記し、両島を事情不明ながら隠岐国の所属と考えました。
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『大日本史』巻308,志3、隠岐国4郡(注2)
隠岐の国、下、(延喜式、一に淤岐、あるいは意岐とする)。
また隱伎三子島という(古事記、案ずるに国は海中にあるゆえ名がついた。邦をいうに、海洋でいう澳をなす。隠岐はすなわち澳である)。
およそ4島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は179で、総称して隠岐小島という)。
別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。
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この一文は重要な内容を含んでいます。
第一点ですが、日本の版図にした文献の根拠が『隠州視聴合記』でなく、隠岐古記などだったことです。言いかえれば『隠州視聴合記』からは竹島・松島が日本の版図であるという解釈ができなかったことを意味しています。
これはとりもなおさず『隠州視聴合記』で「此州」の解釈は竹島・松島ではなく隠州であり、そこが「日本の西北の限り」であったということになり、韓国側の主張を補強することになりそうです。
第二点ですが、竹島および松島を日本の版図となしたということは、それまでは両島は日本の版図でなく、暗に韓人の地であったことを示唆しています。それがいつのまにか事情がよくわからないまま日本の版図になったと同書は記しました。
元来、竹島・松島は日本領ではなかったという認識は『隠州視聴合記』から生まれたのかもしれません。あるいは次の「潜商」事件から生じたのかもしれません。幕府も竹島(鬱陵島)渡海事業以前は、竹島(鬱陵島)が朝鮮領であることを認めていました。幕府の外交文書を集めた『通航一覧』巻之百二十九はこう記しました。
「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて、竹島 朝鮮國属島 に於て潜商のもの二人を捕へて、京師に送る」
「朝鮮國属島」の文字は注釈を示すかのように小さな字で書かれていますが、この記述により幕府および対馬藩の竹島(鬱陵島)に対する認識は明らかです。この事実を池内氏はこう記しました。
(つづく)
ここで補足ですが、同書で「高麗を見るに雲州より隠州を望むごとくである」とあるので、一見すると高麗を見ている竹島・松島は朝鮮の地ではないという解釈が成り立つようにみえます。しかし、高麗は滅んでから300年近くたつので、同書でいう高麗はもちろん国の名前ではありません。朝鮮本土くらいの軽い意味です。
さて、平行線であった両国の解釈にヒントとなる資料が 今は閉鎖されてしまった LYCOS掲示板で提示されました。水戸黄門こと水戸光圀が編纂を始めた水戸藩の『大日本史』です。同書は竹島・松島を次のように記し、両島を事情不明ながら隠岐国の所属と考えました。
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『大日本史』巻308,志3、隠岐国4郡(注2)
隠岐の国、下、(延喜式、一に淤岐、あるいは意岐とする)。
また隱伎三子島という(古事記、案ずるに国は海中にあるゆえ名がついた。邦をいうに、海洋でいう澳をなす。隠岐はすなわち澳である)。
およそ4島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は179で、総称して隠岐小島という)。
別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。
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この一文は重要な内容を含んでいます。
第一点ですが、日本の版図にした文献の根拠が『隠州視聴合記』でなく、隠岐古記などだったことです。言いかえれば『隠州視聴合記』からは竹島・松島が日本の版図であるという解釈ができなかったことを意味しています。
これはとりもなおさず『隠州視聴合記』で「此州」の解釈は竹島・松島ではなく隠州であり、そこが「日本の西北の限り」であったということになり、韓国側の主張を補強することになりそうです。
第二点ですが、竹島および松島を日本の版図となしたということは、それまでは両島は日本の版図でなく、暗に韓人の地であったことを示唆しています。それがいつのまにか事情がよくわからないまま日本の版図になったと同書は記しました。
元来、竹島・松島は日本領ではなかったという認識は『隠州視聴合記』から生まれたのかもしれません。あるいは次の「潜商」事件から生じたのかもしれません。幕府も竹島(鬱陵島)渡海事業以前は、竹島(鬱陵島)が朝鮮領であることを認めていました。幕府の外交文書を集めた『通航一覧』巻之百二十九はこう記しました。
「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて、竹島 朝鮮國属島 に於て潜商のもの二人を捕へて、京師に送る」
「朝鮮國属島」の文字は注釈を示すかのように小さな字で書かれていますが、この記述により幕府および対馬藩の竹島(鬱陵島)に対する認識は明らかです。この事実を池内氏はこう記しました。
(つづく)
これは メッセージ 661 (hangetsujoh さん)への返信です.
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