江戸時代の竹島(鬱陵島)「編入」3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/10 22:43 投稿番号: [663 / 18519]
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慶長19(1614)年、朝鮮政府(東莱府)と対馬藩とのあいだで、朝鮮領であ
る竹島(鬱陵島)への日本人渡航・入居が禁止事項であると確認された。
また元和6(1620)年には、竹島に居住していた鷺坂弥左衛門親子が幕命を
受けた対馬藩によって捕縛された。
さらに寛永14(1637)年に村川船が竹島渡海後に朝鮮半島へ漂着した際、倭
館の対馬藩士は、日本人の竹島渡海は「公儀御法度」と承知していると述べた。
したがって、現在の視点にたって文献資料を眺める限りでは、17世紀初
頭の江戸幕府・対馬藩はいずれも、竹島は日本人の渡航・居住が禁止された朝
鮮領であると確認していたこととなる(注3)。
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このように、幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と知りながら竹島(鬱陵島)渡海免許をだしました。他方、問題の松島(竹島=独島)ですが、竹島一件の処理にみられるように幕府はこの島をそもそも知らなかったので問題外でした。認識がないなら領有意識もなかったことはいうまでもありません。
それはともかく、竹島(鬱陵島)渡海事業が水戸藩には竹島・松島を「我が版図となした」と映ったようです。水戸藩ばかりか、竹島(鬱陵島)に関するかぎり幕府もそのつもりだったのかもしれません。しかし、それも長くは続きませんでした。竹島一件をめぐる日朝交渉で幕府は竹島(鬱陵島)を放棄しました。
時代はくだりますが、その史実から明治政府は幕府が松島(竹島=独島)も同時に日本の版図外にしたと解釈しました。
歴史は繰り返すなんていう法則があるわけではないのでしょうが、明治時代、日本政府は松島(竹島=独島)が日本の版図外であると結論をだしておきながら、軍事的必要から同島を日本領に編入しました。それが SCAPIN 677号で日本の統治から切り離されて今日にいたっているのが現状です。江戸時代の流れと一脈つうじるものがあります。
(注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)
隠州在北海中故云隠岐島 従是 南至雲州美穂関三十五里 辰巳至伯州赤碕浦
四十里 未申至石州温泉津五十八里 自子至卯 無可往地 戍亥間行二日一夜有松
島 又一日程有竹島(俗言磯竹島多竹魚海鹿按神書所謂五十猛歟)此二島無人
之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣
(注2)『大日本史』巻三百八,志三、隠岐國四郡
(ふりがなや返り点は省略)
隱岐國、下、(延喜式○一作淤岐、或意岐)、又曰隱伎三子島、(古事記○按國在海中、故名、邦言謂海洋爲澳。隱岐即澳也)、 凡四島、分曰島前、島後、(隱州視聴合記、隱岐國圖、○属島一百七十九、總稱曰隱岐小島)、別有松島、竹島屬之、(隱岐古記。隱岐紀行、○按自隱地郡蘄浦、至松島海上六十九里、至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、已曰竹島、曰松島、爲我版圖、不待智者而知也、附以備考) ・・・
(注3)池内敏「竹島一件の再検討−元禄六〜九年の日朝交渉」『名古屋大学
文学部研究論集、史学47』2001,P3
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
慶長19(1614)年、朝鮮政府(東莱府)と対馬藩とのあいだで、朝鮮領であ
る竹島(鬱陵島)への日本人渡航・入居が禁止事項であると確認された。
また元和6(1620)年には、竹島に居住していた鷺坂弥左衛門親子が幕命を
受けた対馬藩によって捕縛された。
さらに寛永14(1637)年に村川船が竹島渡海後に朝鮮半島へ漂着した際、倭
館の対馬藩士は、日本人の竹島渡海は「公儀御法度」と承知していると述べた。
したがって、現在の視点にたって文献資料を眺める限りでは、17世紀初
頭の江戸幕府・対馬藩はいずれも、竹島は日本人の渡航・居住が禁止された朝
鮮領であると確認していたこととなる(注3)。
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このように、幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と知りながら竹島(鬱陵島)渡海免許をだしました。他方、問題の松島(竹島=独島)ですが、竹島一件の処理にみられるように幕府はこの島をそもそも知らなかったので問題外でした。認識がないなら領有意識もなかったことはいうまでもありません。
それはともかく、竹島(鬱陵島)渡海事業が水戸藩には竹島・松島を「我が版図となした」と映ったようです。水戸藩ばかりか、竹島(鬱陵島)に関するかぎり幕府もそのつもりだったのかもしれません。しかし、それも長くは続きませんでした。竹島一件をめぐる日朝交渉で幕府は竹島(鬱陵島)を放棄しました。
時代はくだりますが、その史実から明治政府は幕府が松島(竹島=独島)も同時に日本の版図外にしたと解釈しました。
歴史は繰り返すなんていう法則があるわけではないのでしょうが、明治時代、日本政府は松島(竹島=独島)が日本の版図外であると結論をだしておきながら、軍事的必要から同島を日本領に編入しました。それが SCAPIN 677号で日本の統治から切り離されて今日にいたっているのが現状です。江戸時代の流れと一脈つうじるものがあります。
(注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)
隠州在北海中故云隠岐島 従是 南至雲州美穂関三十五里 辰巳至伯州赤碕浦
四十里 未申至石州温泉津五十八里 自子至卯 無可往地 戍亥間行二日一夜有松
島 又一日程有竹島(俗言磯竹島多竹魚海鹿按神書所謂五十猛歟)此二島無人
之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣
(注2)『大日本史』巻三百八,志三、隠岐國四郡
(ふりがなや返り点は省略)
隱岐國、下、(延喜式○一作淤岐、或意岐)、又曰隱伎三子島、(古事記○按國在海中、故名、邦言謂海洋爲澳。隱岐即澳也)、 凡四島、分曰島前、島後、(隱州視聴合記、隱岐國圖、○属島一百七十九、總稱曰隱岐小島)、別有松島、竹島屬之、(隱岐古記。隱岐紀行、○按自隱地郡蘄浦、至松島海上六十九里、至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、已曰竹島、曰松島、爲我版圖、不待智者而知也、附以備考) ・・・
(注3)池内敏「竹島一件の再検討−元禄六〜九年の日朝交渉」『名古屋大学
文学部研究論集、史学47』2001,P3
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 662 (hangetsujoh さん)への返信です.
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