一応、まとめて置きます
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/12/13 11:03 投稿番号: [6398 / 18519]
家鴨と兎さんwrote:
>「明治32,3年頃から通漁、特に36年イカの饒産を発見するや、入植者急に増加す。朝鮮もこれにならってイカ釣開始。この頃奥村平太郎潜水器及びサザエ、さば缶詰開始。日露役後移住者急増、35,6年頃から邦人も海藻採集を開始したが、単独経営ではなく全部島人との共同経営。潜水器業者も早くから来島し、あわび採取、その人夫に朝鮮人を使用、大正4年頃にはすでに大分県人40人来漁移住、39年小学校開設、本島産のするめは専ら隠岐島人の開拓で、42,3年頃から石見、境、米子の商人が専門の運搬船をもって取引し、ほとんどするめと米の物々交換であった。」(古田敬市「朝鮮水産開発史」1954年、内藤正中「竹島[鬱陵島]をめぐる日朝関係史」p.156.より孫引き)
古田氏の「朝鮮水産開発史」がどの様な史料に基づいたものなのかは不明ですが、慶尚南道庁『慶尚南道道勢要覧』1911年(明治44年)に拠れば、同時期の鬱島郡の内地人漁業従事者はゼロですから、鬱陵島でスルメ取引をしていたのは隠岐などからの通漁者か、又は1290名が従事していたと記録されている朝鮮人漁業従事者(内スルメ従事するのは90人)かの何れかになります。
しかし、米を物々交換で入手する必要性を考えた場合、通漁者にそれほど必要とは考えづらく、元々島民がスルメを捕っていたところへ後から1911年以降日本人入植者が入島し従事するようになったと考えるのが合理的でしょう。
これは メッセージ 6384 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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