鳥取藩池田家文書1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2002/12/29 21:20 投稿番号: [604 / 18519]
半月城です。
RE:591
>せめて池田家文書辺りを根拠に出すのなら、地方政府の認識が分かるのですが、小生も見たことありませんから。
池田家の文書は「竹島日本領派」の研究者によりかなり調査されました。その結果は「竹島日本領派」にとって決して有利ではないようです。まず、池田家文書とはいかなるものか、塚本氏はこう解説しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
現在、鳥取県立博物館に『竹嶋之書附』と題する冊子体の資料がある(請求番号610-1711)。この冊子には、目次に掲げた順序で13の文書および一つの絵図が含まれている。
これらの文書類は、因幡・伯耆両国を統治していた鳥取藩池田家の旧蔵資料であって、明治42年から昭和8年にかけて池田家による藩史編纂事業に使用された後、昭和12年に他の多くの資料とともに鳥取県立図書館に寄託(後に寄贈)され、さらに県立博物館に移管されたものである。
・・・
次章に全文を掲載する『竹嶋之書附』は、元禄ー享保年間(17世紀末ー18世紀初)における鳥取藩と幕府の往復を中心とする文書類である。
これより先、元和4年5月(1618年)幕府は鳥取藩を通じて伯耆国米子の大谷(屋)、村川両家に「竹島」渡海の免許を与えた。ここで言う竹島は、実は鬱陵島のことである。
・・・
日本人の“竹島”(鬱陵島)渡海は、爾来約80年続いた。ところが元禄5年3月(1692年)、現地で初めて朝鮮人と出合い、更に翌年には朝鮮人二名を連れ帰るという事件が起きた。ここに“竹島”(鬱陵島)出漁をめぐり、国家レベルの問題が生じた。
次章の文書類は、この紛争に関連したものである。幕府は対馬の宗氏をして交渉に当たらせる一方、鳥取藩に問合せて“竹島”渡海の経緯を調査し、ついに元禄9年1月(1696年)、“竹島”(鬱陵島)への渡航を禁止した(注1)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
RE:591
>せめて池田家文書辺りを根拠に出すのなら、地方政府の認識が分かるのですが、小生も見たことありませんから。
池田家の文書は「竹島日本領派」の研究者によりかなり調査されました。その結果は「竹島日本領派」にとって決して有利ではないようです。まず、池田家文書とはいかなるものか、塚本氏はこう解説しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
現在、鳥取県立博物館に『竹嶋之書附』と題する冊子体の資料がある(請求番号610-1711)。この冊子には、目次に掲げた順序で13の文書および一つの絵図が含まれている。
これらの文書類は、因幡・伯耆両国を統治していた鳥取藩池田家の旧蔵資料であって、明治42年から昭和8年にかけて池田家による藩史編纂事業に使用された後、昭和12年に他の多くの資料とともに鳥取県立図書館に寄託(後に寄贈)され、さらに県立博物館に移管されたものである。
・・・
次章に全文を掲載する『竹嶋之書附』は、元禄ー享保年間(17世紀末ー18世紀初)における鳥取藩と幕府の往復を中心とする文書類である。
これより先、元和4年5月(1618年)幕府は鳥取藩を通じて伯耆国米子の大谷(屋)、村川両家に「竹島」渡海の免許を与えた。ここで言う竹島は、実は鬱陵島のことである。
・・・
日本人の“竹島”(鬱陵島)渡海は、爾来約80年続いた。ところが元禄5年3月(1692年)、現地で初めて朝鮮人と出合い、更に翌年には朝鮮人二名を連れ帰るという事件が起きた。ここに“竹島”(鬱陵島)出漁をめぐり、国家レベルの問題が生じた。
次章の文書類は、この紛争に関連したものである。幕府は対馬の宗氏をして交渉に当たらせる一方、鳥取藩に問合せて“竹島”渡海の経緯を調査し、ついに元禄9年1月(1696年)、“竹島”(鬱陵島)への渡航を禁止した(注1)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
これは メッセージ 591 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/604.html