下條正男氏への批判、勅令41号
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/08/29 16:31 投稿番号: [5571 / 18519]
半月城です。
最近、竹島=独島に関する書籍が相次いで出版されましたが、その中で下條氏の本には驚かされます(注1)。随所で以前とは違う説明がなされています。
ふつう、研究者はよほどのことがないかぎり自説をなかなか変えないものです。それというのも研究者が新説をとなえる時は相当な調査、研究が土台になっているためであり、他の研究者といえどもそれに異議をとなえるのは容易ではありません。
それくらい研究者の新説には重みがあります。ところが下條正男氏の場合、研究者と呼ぶのがふさわしくないのか、あるいはその研究手法に問題があるのか、自説をしばしば変えるようです。
たとえば、大韓帝国の勅令41号をめぐる解釈です。この勅令41号(1900)は領有権問題にとってきわめて重要です。もし、そこに書かれた「石島」が竹島=独島をさすのなら、同島は「狼どもの国際法」にてらすと韓国領とするのが妥当であり、竹島=独島を無主地と強弁して領土編入(1905)した日本の行為は無効になります。
石島の比定で下條氏の考えがどう変遷したのか、その詳細は後回しにして、まず日本の研究者は石島をどの島に考えているのか分類してみます。
1.竹島=独島:内藤正中(注2)、大西俊輝(注3)
2.石島は不明:塚本孝(注4)
3.観音島:無?
日本人研究者は、石島を竹島=独島ないしは不明と考えているようですが、そのなかでただ一人(?)、かつての下條氏は、石島は鬱陵島直近の観音島であると断定してこう記しました。
<さらに「勅令41号」に記された竹島は、今日の竹嶼であったので、石島は今の観音島とすることが出来る。何故なら獨島(竹島)でアシカ猟が始まるのは「勅令41号」が公布された三年後(1903年)で、それ以前は絶海の孤島だったからである(注5,P52)>
この一節からわかるように、下條氏は石島と観音島を直接結びつける文献資料をまったく提示せず、単なる当て推量で石島を観音島と断定しました。
ところが、最近、同氏は石島を観音島とする自説を撤回したのか「石島はどこを指すのか判然としない」として、こう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1900(明治33)年、大韓帝国は禹用鼎を鬱陵島に派遣、その報告をもとにして十月二十五日、鬱陵島を「鬱島郡」に昇格させ、郡守の常駐を決定した。
その際、大韓帝国政府は「勅令四十一号」を発布し、鬱島郡の行政区域を「鬱陵島全島と竹島、石島」と定めた。政府の認識では、鬱陵島には竹島と石島という二つの属島があったことになる。
しかしこの「勅令四十一号」には、属島の緯度や経度までは明記されておらず、竹島と石島が実際にどこの島を指すのか、正確さを欠いていた。
今日の竹島は、当時はまだ竹島と呼ばれておらず、古くは松島、そのころでは日朝ともにリャンコ島と呼ばれていたので、「勅令四十一号」にある竹島は、李奎遠の調査でも「竹島」とされた鬱陵島近傍の竹嶼と思われるが、石島はどこを指すのか判然としない(注1,P112)
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(つづく)
最近、竹島=独島に関する書籍が相次いで出版されましたが、その中で下條氏の本には驚かされます(注1)。随所で以前とは違う説明がなされています。
ふつう、研究者はよほどのことがないかぎり自説をなかなか変えないものです。それというのも研究者が新説をとなえる時は相当な調査、研究が土台になっているためであり、他の研究者といえどもそれに異議をとなえるのは容易ではありません。
それくらい研究者の新説には重みがあります。ところが下條正男氏の場合、研究者と呼ぶのがふさわしくないのか、あるいはその研究手法に問題があるのか、自説をしばしば変えるようです。
たとえば、大韓帝国の勅令41号をめぐる解釈です。この勅令41号(1900)は領有権問題にとってきわめて重要です。もし、そこに書かれた「石島」が竹島=独島をさすのなら、同島は「狼どもの国際法」にてらすと韓国領とするのが妥当であり、竹島=独島を無主地と強弁して領土編入(1905)した日本の行為は無効になります。
石島の比定で下條氏の考えがどう変遷したのか、その詳細は後回しにして、まず日本の研究者は石島をどの島に考えているのか分類してみます。
1.竹島=独島:内藤正中(注2)、大西俊輝(注3)
2.石島は不明:塚本孝(注4)
3.観音島:無?
日本人研究者は、石島を竹島=独島ないしは不明と考えているようですが、そのなかでただ一人(?)、かつての下條氏は、石島は鬱陵島直近の観音島であると断定してこう記しました。
<さらに「勅令41号」に記された竹島は、今日の竹嶼であったので、石島は今の観音島とすることが出来る。何故なら獨島(竹島)でアシカ猟が始まるのは「勅令41号」が公布された三年後(1903年)で、それ以前は絶海の孤島だったからである(注5,P52)>
この一節からわかるように、下條氏は石島と観音島を直接結びつける文献資料をまったく提示せず、単なる当て推量で石島を観音島と断定しました。
ところが、最近、同氏は石島を観音島とする自説を撤回したのか「石島はどこを指すのか判然としない」として、こう記しました。
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1900(明治33)年、大韓帝国は禹用鼎を鬱陵島に派遣、その報告をもとにして十月二十五日、鬱陵島を「鬱島郡」に昇格させ、郡守の常駐を決定した。
その際、大韓帝国政府は「勅令四十一号」を発布し、鬱島郡の行政区域を「鬱陵島全島と竹島、石島」と定めた。政府の認識では、鬱陵島には竹島と石島という二つの属島があったことになる。
しかしこの「勅令四十一号」には、属島の緯度や経度までは明記されておらず、竹島と石島が実際にどこの島を指すのか、正確さを欠いていた。
今日の竹島は、当時はまだ竹島と呼ばれておらず、古くは松島、そのころでは日朝ともにリャンコ島と呼ばれていたので、「勅令四十一号」にある竹島は、李奎遠の調査でも「竹島」とされた鬱陵島近傍の竹嶼と思われるが、石島はどこを指すのか判然としない(注1,P112)
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(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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