獨島問答 Q48
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/01/18 17:58 投稿番号: [3137 / 18519]
獨島問答 Q48.(鬱陵島検察)
鬱陵島検察使・李奎遠が鬱陵島に入り現地調査を実行した結果はどうであったのか?
日本人たちが実際に鬱陵島にこっそり侵入し伐木していたのか?
ANS.日本人と本国人多数がこっそり入島し、木材を伐採したり、船を造ったり、漁をしていた。
鬱陵島検察使・李奎遠は3隻の船と 102人で構成された大規模な現地調査団を編制した。李奎遠一行は 1882年陰暦4月29日、3隻の船に分かれて乗り、江原道 平海 邱山浦を出発し、4月30日、鬱陵島西面小黄土邱尾に到着した。
5月1日から満6日間、徒歩で鬱陵島内を現地踏査し、ついで2日にわたり船で鬱陵島海岸を一回りし、海岸調査を実施した。
李奎遠一行は、この過程で鬱陵島のすぐ近くにある岩島の竹嶼島(または通称、竹島)を探しだし観察したが、鬱陵島から 49カイリも離れた于山島(獨島)は鬱陵島滞在者から存在するという話だけを聞き、現地調査は風浪を恐れ実行しなかった。
李奎遠一行は出発当初から風浪を恐れ、鬱陵島に到着後はいつも明け方に風浪を鎮める山神祭を行っていた。しかし、李奎遠は古代の于山国の基盤が鬱陵島・竹嶼島・于山島(獨島)の三島で構成されていたと確信し認識を強固にして戻った。
鬱陵島検察使 李奎遠一行が鬱陵島の現地調査で検察した内容のうち、鬱陵島・獨島再開拓と関連したいくつかの事項をかれの日記と報告書でまとめると次のような事実が特に目を引く。
(1)鬱陵島に入っている本国人(朝鮮人)は全部で 140名だが、出身道別にみれば、全羅道が 115名(全体の82%)、江原道(平海)が 14名(10%)、慶尚道が 10名(7%)、京畿道(披州)が1名であった。
全羅道出身は南海岸の島や沿岸に居住する人たちが1隻の船に 13-24名ずつ乗って来ており、集団別にテントを張り滞留しながら木を伐り船を造っていた。
(2)本国人の職業をみれば、木を伐り船をつくる人が 129名(全体の 92.2%)、朝鮮人参など薬草を採る人が9名(6.4%)、竹を伐る人が2名(1.4%)などであった。
全羅道(115名)と江原道(14名)から来た人たちは 13-24名がひとつの集団をなしてテントを張って暮らし、材木を伐り船(船舶)を造り、時にはワカメ採りをしたり漁をしたが、船(船舶)ができると、その新しい船にワカメと魚を積んで帰った。
慶尚道の慶州から来た7名と咸陽から来た1名(全錫奎)、京畿道の披州から来た1名は朝鮮人参と薬草を採り、慶尚道の延日から来た他の2名は竹を伐っていた。
(3)鬱陵島に侵入した日本人は全部で 78名であった。かれらはみな材木を伐って積みだすために来たのであり、材木を切り板材を作る所が海岸に18か所あった。
日本人と筆談をしてみたところ、その答の要旨は
(A) 日本の東海道、南海道、山陽道の人たち 78名が今年4月に鬱陵島に入りテントを張って伐木をしており、
(B) 今年8月に日本から船舶が来れば木材と板材を積んで帰る予定であり、
(C) 朝鮮政府が鬱陵島の材木伐採を禁止しているのを知らないばかりか、
(D) 鬱陵島が「日本帝国地圖」に松島と表示されており、日本領と理解していると答えた日本人もおり、
(E) 二年前にも鬱陵島に入り材木を伐採して積んで行き、
(F) 鬱陵島南浦には鬱陵島を「日本国松島」と書いた標木が立っている、
とのことであった。
(4)検察使一行が鬱陵島の長斫之浦に行ったところ、海辺の石だらけの道に長さ6尺、幅1尺(30cm)の標木が立っていた。その標木の前面には「大日本国松島槻谷」と書かれ、左辺には「明治二年二月十三日 岩崎忠照 建立」と書かれていた(注)。日本人が 1869年に鬱陵島に入り、日本国の「松島」という標木を立てていたのである。
(5)鬱陵島を再開拓して邑をつくる場合に住居地としては羅里洞が長さ10里、周囲が40余里にて数千戸を居住させることができるし、このほかにも 100-200戸を収容できるところが6−7か所あることを調査した。また、浦は 14か所と比較的豊富で、代表的な物産として 43種をあげ報告した。
朝鮮の中央政府はこの現地調査報告書にしたがい、1882年5月鬱陵島の実態を正確に把握するようになった。
(注)原文では「明治二年二月二十三日 崎岩忠照」とあるのを訂正。
鬱陵島検察使・李奎遠が鬱陵島に入り現地調査を実行した結果はどうであったのか?
日本人たちが実際に鬱陵島にこっそり侵入し伐木していたのか?
ANS.日本人と本国人多数がこっそり入島し、木材を伐採したり、船を造ったり、漁をしていた。
鬱陵島検察使・李奎遠は3隻の船と 102人で構成された大規模な現地調査団を編制した。李奎遠一行は 1882年陰暦4月29日、3隻の船に分かれて乗り、江原道 平海 邱山浦を出発し、4月30日、鬱陵島西面小黄土邱尾に到着した。
5月1日から満6日間、徒歩で鬱陵島内を現地踏査し、ついで2日にわたり船で鬱陵島海岸を一回りし、海岸調査を実施した。
李奎遠一行は、この過程で鬱陵島のすぐ近くにある岩島の竹嶼島(または通称、竹島)を探しだし観察したが、鬱陵島から 49カイリも離れた于山島(獨島)は鬱陵島滞在者から存在するという話だけを聞き、現地調査は風浪を恐れ実行しなかった。
李奎遠一行は出発当初から風浪を恐れ、鬱陵島に到着後はいつも明け方に風浪を鎮める山神祭を行っていた。しかし、李奎遠は古代の于山国の基盤が鬱陵島・竹嶼島・于山島(獨島)の三島で構成されていたと確信し認識を強固にして戻った。
鬱陵島検察使 李奎遠一行が鬱陵島の現地調査で検察した内容のうち、鬱陵島・獨島再開拓と関連したいくつかの事項をかれの日記と報告書でまとめると次のような事実が特に目を引く。
(1)鬱陵島に入っている本国人(朝鮮人)は全部で 140名だが、出身道別にみれば、全羅道が 115名(全体の82%)、江原道(平海)が 14名(10%)、慶尚道が 10名(7%)、京畿道(披州)が1名であった。
全羅道出身は南海岸の島や沿岸に居住する人たちが1隻の船に 13-24名ずつ乗って来ており、集団別にテントを張り滞留しながら木を伐り船を造っていた。
(2)本国人の職業をみれば、木を伐り船をつくる人が 129名(全体の 92.2%)、朝鮮人参など薬草を採る人が9名(6.4%)、竹を伐る人が2名(1.4%)などであった。
全羅道(115名)と江原道(14名)から来た人たちは 13-24名がひとつの集団をなしてテントを張って暮らし、材木を伐り船(船舶)を造り、時にはワカメ採りをしたり漁をしたが、船(船舶)ができると、その新しい船にワカメと魚を積んで帰った。
慶尚道の慶州から来た7名と咸陽から来た1名(全錫奎)、京畿道の披州から来た1名は朝鮮人参と薬草を採り、慶尚道の延日から来た他の2名は竹を伐っていた。
(3)鬱陵島に侵入した日本人は全部で 78名であった。かれらはみな材木を伐って積みだすために来たのであり、材木を切り板材を作る所が海岸に18か所あった。
日本人と筆談をしてみたところ、その答の要旨は
(A) 日本の東海道、南海道、山陽道の人たち 78名が今年4月に鬱陵島に入りテントを張って伐木をしており、
(B) 今年8月に日本から船舶が来れば木材と板材を積んで帰る予定であり、
(C) 朝鮮政府が鬱陵島の材木伐採を禁止しているのを知らないばかりか、
(D) 鬱陵島が「日本帝国地圖」に松島と表示されており、日本領と理解していると答えた日本人もおり、
(E) 二年前にも鬱陵島に入り材木を伐採して積んで行き、
(F) 鬱陵島南浦には鬱陵島を「日本国松島」と書いた標木が立っている、
とのことであった。
(4)検察使一行が鬱陵島の長斫之浦に行ったところ、海辺の石だらけの道に長さ6尺、幅1尺(30cm)の標木が立っていた。その標木の前面には「大日本国松島槻谷」と書かれ、左辺には「明治二年二月十三日 岩崎忠照 建立」と書かれていた(注)。日本人が 1869年に鬱陵島に入り、日本国の「松島」という標木を立てていたのである。
(5)鬱陵島を再開拓して邑をつくる場合に住居地としては羅里洞が長さ10里、周囲が40余里にて数千戸を居住させることができるし、このほかにも 100-200戸を収容できるところが6−7か所あることを調査した。また、浦は 14か所と比較的豊富で、代表的な物産として 43種をあげ報告した。
朝鮮の中央政府はこの現地調査報告書にしたがい、1882年5月鬱陵島の実態を正確に把握するようになった。
(注)原文では「明治二年二月二十三日 崎岩忠照」とあるのを訂正。
これは メッセージ 2875 (hangetsujoh さん)への返信です.
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