獨島問答 Q48へのコメント
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/01/18 17:59 投稿番号: [3138 / 18519]
半月城です。獨島問答Q48にたいするコメントをここに書きます。
鬱陵島検察使に任命された李奎遠は出発前に王と対話しましたが、その時の両者の鬱陵島、于山島にかんする認識は下記のとおりでした。
王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島
李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島
一行は船で鬱陵島を一周したとき、東海岸でふたつの島を確認し、報告書の草稿本である『啓本草』にこう記しました(注1)。
「もうひとつの浦があり、名前は船板邱尾である。その南辺の海の中にふたつの小さな島があるが、形は臥せった牛のようで、左右に回ってお互いに抱いているような姿である。
ひとつは竹島で、ひとつは島項というが、ただ竹藪があるのみである。日が暮れたので陸地にあがった」
李奎遠は鬱陵島を調査して地図「鬱陵島外圖」を作成しましたが、それをみると「島項」は現在の観音島(別名、ガッセ島)、「竹島」は現在の竹島(韓国名、別名は竹嶼)にあたります。
http://www.ullungdo.com/map/image/11.jpg
ちなみに「島項」は訓読みにすると「島のうなじ」になりますが、これに相当する韓国語の Seom Mokは現在でも鬱陵島と観音島間のノドのような場所の名として使われています。ahirutousagi2さんの憶測に反して、李奎遠が記した島「島項」は于山島とは無縁です。それとは別に于山島や松竹島について李奎遠はこう記しました。
「松竹于山などの島を現地仮住の同胞たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注2)」
李奎遠は松竹島=松島竹島については竹嶼に比定することを避け、不明なままとしました。もし松島竹島のうち「竹島」を竹嶼にしたら、「松島」をどうするのか、これを観音島にするわけにもいかないので、扱いがむずかしかったためと思われます。
一方、于山島についても高所からの単なる目視を試みたのみで、実際の探査は実施しませんでした。高所での目視はやはり失敗でした。現在でも鬱陵島から竹島=独島をみるのは条件がかなりよくないと見えないものです。
<竹島(独島)は見えるか>
http://www.han.org/a/half-moon/hm066.html#No.434
李奎遠は出発前に「芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名」と王に語り、島名の「芋山島」と国都名の「芋山」を微妙に使い分けていました。他方で上記のように、于山島は「近傍の島」という島人の話を記録しているので、李は于山島=鬱陵島というみずからの認識を疑問視したようです。もちろん于山島を島項や竹島(韓国名)などには比定しませんでした。不明ながら、それ以外の島と考えたようでした。
その一方で「芋山は昔の国都の名」という認識は依然としてそのままのようだったようで「鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである」と記しました。いうまでもなく耽羅国も于山国同様に昔の国都の名でした。
(注1)李奎遠『啓本草』5月9日条
「又有一浦 名船板邱尾 南邊洋中 有二小島 形如臥牛 而左右回旋 勢若相抱 一曰竹島 一曰島項 只有叢竹而已 日暮 下陸」
(注2)原文は下記参照
<『高宗実録』と鬱陵島検察>
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.690
鬱陵島検察使に任命された李奎遠は出発前に王と対話しましたが、その時の両者の鬱陵島、于山島にかんする認識は下記のとおりでした。
王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島
李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島
一行は船で鬱陵島を一周したとき、東海岸でふたつの島を確認し、報告書の草稿本である『啓本草』にこう記しました(注1)。
「もうひとつの浦があり、名前は船板邱尾である。その南辺の海の中にふたつの小さな島があるが、形は臥せった牛のようで、左右に回ってお互いに抱いているような姿である。
ひとつは竹島で、ひとつは島項というが、ただ竹藪があるのみである。日が暮れたので陸地にあがった」
李奎遠は鬱陵島を調査して地図「鬱陵島外圖」を作成しましたが、それをみると「島項」は現在の観音島(別名、ガッセ島)、「竹島」は現在の竹島(韓国名、別名は竹嶼)にあたります。
http://www.ullungdo.com/map/image/11.jpg
ちなみに「島項」は訓読みにすると「島のうなじ」になりますが、これに相当する韓国語の Seom Mokは現在でも鬱陵島と観音島間のノドのような場所の名として使われています。ahirutousagi2さんの憶測に反して、李奎遠が記した島「島項」は于山島とは無縁です。それとは別に于山島や松竹島について李奎遠はこう記しました。
「松竹于山などの島を現地仮住の同胞たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注2)」
李奎遠は松竹島=松島竹島については竹嶼に比定することを避け、不明なままとしました。もし松島竹島のうち「竹島」を竹嶼にしたら、「松島」をどうするのか、これを観音島にするわけにもいかないので、扱いがむずかしかったためと思われます。
一方、于山島についても高所からの単なる目視を試みたのみで、実際の探査は実施しませんでした。高所での目視はやはり失敗でした。現在でも鬱陵島から竹島=独島をみるのは条件がかなりよくないと見えないものです。
<竹島(独島)は見えるか>
http://www.han.org/a/half-moon/hm066.html#No.434
李奎遠は出発前に「芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名」と王に語り、島名の「芋山島」と国都名の「芋山」を微妙に使い分けていました。他方で上記のように、于山島は「近傍の島」という島人の話を記録しているので、李は于山島=鬱陵島というみずからの認識を疑問視したようです。もちろん于山島を島項や竹島(韓国名)などには比定しませんでした。不明ながら、それ以外の島と考えたようでした。
その一方で「芋山は昔の国都の名」という認識は依然としてそのままのようだったようで「鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである」と記しました。いうまでもなく耽羅国も于山国同様に昔の国都の名でした。
(注1)李奎遠『啓本草』5月9日条
「又有一浦 名船板邱尾 南邊洋中 有二小島 形如臥牛 而左右回旋 勢若相抱 一曰竹島 一曰島項 只有叢竹而已 日暮 下陸」
(注2)原文は下記参照
<『高宗実録』と鬱陵島検察>
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.690
これは メッセージ 3137 (hangetsujoh さん)への返信です.
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