『大日本府縣分轄圖』について
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/04/21 23:51 投稿番号: [18250 / 18519]
ahirutousagi2様は、“1881年の内務省地理局「大日本府県分轄図」をどのように理解されるのでしょうか。アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島となっていますが、これは内務省地理局の歪曲ということで理解すればよろしいのでしょうか。本当はリアンクール岩を放棄していたのに、気(政策)が変わったので、方向転換したというご意見でしょうか。ご教授いただければ幸いです。”と書かれたので、それに関する私の考えを述べます。
『大日本府縣分轄圖』は、郡区管轄を周知するため、一道三府三十七県を十六幀とした地図帳で、内務省地理局が塚本明毅監修として明治14(1881)年5月初版を刊行しました。その中の日本とその周辺を示した「大日本全國略圖」は、畿内八道の境界を彩色し、竹島・松島が描かれています。この地図については、塚本明毅が主導した官撰地誌『日本地誌提要』とともに、本掲示板Nos.12262, 15679, 15715, 15720, 15815, 15816, 15893, 15914, 15927, 15931等で詳しく議論しました。
要約すると、私の考えは、塚本明毅は1873年の『Carte de l'empire du Japon』やその説明書『日本地誌提要』で竹島・松島の日本領化を図りました。しかし、1877年太政官指令で「竹島外一島本邦関係無之」とされたので、これに不服の塚本は、ahirutousagi2様が主張されたように、「大日本全國略圖」で、竹島を烏有のアルゴノート、松島を「竹島一件」で放棄した鬱陵島の位置に比定し、太政官指令に、ささやかな抗議の意味を込めたのではないか、というものです(No.15816)。
しかし、塚本明毅が1881年の「大日本全國略圖」でアルゴノート・ダジュレーの位置に竹島・松島を描いたとはいえ、1877年の「竹島外一島本邦関係無之」の太政官指令は活きており、日本政府は、「本当はリアンクール岩を放棄していたのに、気(政策)が変わったので、方向転換」して、リアンクール岩(松島)を放棄しなかった訳ではありません。従って、内務省地理局は、公的な地図である『大日本府縣管轄圖』(1879)・『大日本國全圖』(1880)・『大日本府縣分轄圖』(1881)の島根岡山二縣圖に、「松島竹島」を載せることは出来なかった、と私は考えています(No.15893)。
なお、『大日本全國略圖』は版により彩色が異なり、田中邦貴氏は内閣文庫に所蔵されていた『大日本全國略圖』では、松島が隠岐と同色に塗られていることを明らかにしました。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/fukenbunkatsuzu-1881/
一方、半月城氏は、国会図書館蔵の陸軍文庫印のある「大日本全國略圖」では、隠岐・山陰道は彩色されているが、松島は彩色されていないことを示しました。
http://www.kr-jp.net/map/naimu-map/naimu-map.html
私は、初版と思われる「大日本全國略圖」は、拡大しなければ分らない程ですが、竹島・松島を隠岐・山陰道と同色に彩っているように感じました。そこで、『Carte de l'empire du Japon』や『日本地誌提要』で竹島・松島の日本領化を図った塚本明毅は、太政官指令の「竹島外一島本邦関係無之」に反抗して、あえて竹島・松島を隠岐・山陰道と同色に彩ったのではないかと考えました。しかし、1882年2月以降の「大日本全國略圖」改訂版では竹島・松島の彩色はありませんから、塚本は、竹島・松島を一度は隠岐・山陰道と同色にしたものの、その後は太政官指令に従い、結局、竹島・松島を日本の版図外にした、と思っております(Nos.15927, 15931)。
1881年11月、竹島と松島を隠岐国穏地郡に所属させた河井庫太郎『日本地學辭書』が出版されました。塚本明毅と渡邊洪基はそれに序文を寄せています。翌年、河井庫太郎は内務省地理局に出仕し、地誌編纂に従事しました(No.17552)。しかしその後1905年まで、日本の地誌や地図に「竹島松島」が現れることは殆んど無くなりました(No.17531)。
『大日本府縣分轄圖』は、郡区管轄を周知するため、一道三府三十七県を十六幀とした地図帳で、内務省地理局が塚本明毅監修として明治14(1881)年5月初版を刊行しました。その中の日本とその周辺を示した「大日本全國略圖」は、畿内八道の境界を彩色し、竹島・松島が描かれています。この地図については、塚本明毅が主導した官撰地誌『日本地誌提要』とともに、本掲示板Nos.12262, 15679, 15715, 15720, 15815, 15816, 15893, 15914, 15927, 15931等で詳しく議論しました。
要約すると、私の考えは、塚本明毅は1873年の『Carte de l'empire du Japon』やその説明書『日本地誌提要』で竹島・松島の日本領化を図りました。しかし、1877年太政官指令で「竹島外一島本邦関係無之」とされたので、これに不服の塚本は、ahirutousagi2様が主張されたように、「大日本全國略圖」で、竹島を烏有のアルゴノート、松島を「竹島一件」で放棄した鬱陵島の位置に比定し、太政官指令に、ささやかな抗議の意味を込めたのではないか、というものです(No.15816)。
しかし、塚本明毅が1881年の「大日本全國略圖」でアルゴノート・ダジュレーの位置に竹島・松島を描いたとはいえ、1877年の「竹島外一島本邦関係無之」の太政官指令は活きており、日本政府は、「本当はリアンクール岩を放棄していたのに、気(政策)が変わったので、方向転換」して、リアンクール岩(松島)を放棄しなかった訳ではありません。従って、内務省地理局は、公的な地図である『大日本府縣管轄圖』(1879)・『大日本國全圖』(1880)・『大日本府縣分轄圖』(1881)の島根岡山二縣圖に、「松島竹島」を載せることは出来なかった、と私は考えています(No.15893)。
なお、『大日本全國略圖』は版により彩色が異なり、田中邦貴氏は内閣文庫に所蔵されていた『大日本全國略圖』では、松島が隠岐と同色に塗られていることを明らかにしました。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/fukenbunkatsuzu-1881/
一方、半月城氏は、国会図書館蔵の陸軍文庫印のある「大日本全國略圖」では、隠岐・山陰道は彩色されているが、松島は彩色されていないことを示しました。
http://www.kr-jp.net/map/naimu-map/naimu-map.html
私は、初版と思われる「大日本全國略圖」は、拡大しなければ分らない程ですが、竹島・松島を隠岐・山陰道と同色に彩っているように感じました。そこで、『Carte de l'empire du Japon』や『日本地誌提要』で竹島・松島の日本領化を図った塚本明毅は、太政官指令の「竹島外一島本邦関係無之」に反抗して、あえて竹島・松島を隠岐・山陰道と同色に彩ったのではないかと考えました。しかし、1882年2月以降の「大日本全國略圖」改訂版では竹島・松島の彩色はありませんから、塚本は、竹島・松島を一度は隠岐・山陰道と同色にしたものの、その後は太政官指令に従い、結局、竹島・松島を日本の版図外にした、と思っております(Nos.15927, 15931)。
1881年11月、竹島と松島を隠岐国穏地郡に所属させた河井庫太郎『日本地學辭書』が出版されました。塚本明毅と渡邊洪基はそれに序文を寄せています。翌年、河井庫太郎は内務省地理局に出仕し、地誌編纂に従事しました(No.17552)。しかしその後1905年まで、日本の地誌や地図に「竹島松島」が現れることは殆んど無くなりました(No.17531)。
これは メッセージ 17531 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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