竹島外一島は現竹島:下條正男氏への疑問
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2009/09/04 23:03 投稿番号: [17531 / 18519]
下條正男氏は、Web竹島問題研究所の「実事求是第22回」で、次のように書きました:「1876年10月、島根県が「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務卿に提出し、竹島と松島を島根県に編入すべきか伺いを立てた際、太政官が翌年、「竹島外一島本邦関係これなし」とし、竹島と外一島の松島を日本の領土とは関係がないとした」が、「問題はその4年後の明治14年(1881年)8月、外務省の命を奉じて調査した北澤正誠が「外一島」にあたる松島を欝陵島と断定し、それが明治政府の見解となった事実にある。1877年、太政官指令で「竹島外一島本邦関係これなし」とされた松島は、1881年には欝陵島であったことが確認され、今日の竹島は太政官指令とは「関係これなし」だったのである。」
下條正男氏は、太政官指令の外一島にあたる松島を、北澤正誠が欝陵島と断定した松島としていますが、これには根拠が乏しいように思います。
島根県が提出した伺書には、竹島と松島を詳述した文書が添付されました。その文書は、最初に「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許」と竹島の位置と大きさを示し、次いで物産の豊かなことが記されています。そして「次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」とあります。この記述から「竹島外一島本邦関係無之」の外一島は、松島=現竹島であることは明らかです。そして、太政官指令の「外一島にあたる松島を欝陵島と断定し、それが明治政府の見解となった事実」はありません(例えばNo. 14825)。
1881年北澤正誠は、『竹島考證』に「明治十三年天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ其地ニ至リ測量シ始テ松島ハ欝陵島ニシテ其他竹島ナル者ハ一個ノ岩石タルニ過キサルヲ知リ事始テ了然タリ」と書いています。しかしこれは、当時の外務省記録局長渡邉洪基から委任されて外交記録の編纂に従事した、北澤正誠の個人的な感慨でしょう。外務省或いは明治政府によって、「太政官指令で「竹島外一島本邦関係これなし」とされた松島は、1881年には欝陵島であったことが確認」されたことはありません。
外務省では、大久保利通が高く評価していた交信局長田邉太一は、明治10年頃相次いで出された「松島」開拓願に対し、この「松島」は欝陵島であり、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べ、実際の松島は朝鮮の蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していました(Nos. 14932, 15550)。
塚本明毅編『日本地誌提要』が隠岐の島嶼として松島と竹島を記し、日本領化を図ったことについては、私も下條氏と同意見です(Nos. 15715, 15720, 15815)。ただし、内務省地理局は、1881年に出版した『大日本府縣分轄圖』中の「大日本全國略圖」で、松島を隠岐・山陰道と同じ黄褐色に彩っていますが、1883年の改訂版では松島の彩色はありません。従って地理局は、一度、松島を隠岐に所属させたものの、後、太政官指令を受け入れ松島を日本の版図外にしたものと考えます(Nos. 15816, 15893, 15914, 15927, 15931)。
文部省で教科書行政に携った大槻修二は、1875年刊行の『日本地誌要略』「隠岐」条で、「抑此國ハ、日本海中西邊ノ絶島ニシテ、其西北洋中ニ、松島・竹島ノ両島アリ、共ニ朝鮮地方ニ接近スレドモ、亦居民統屬ナク、各方ノ人、時ニ來リテ、海獵ノ場トナスト云フ」と、松島竹島を統属なき地と見做しました。しかし彼は、1886年の『改正日本地誌要略』では、「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ」と、松島竹島を朝鮮領に改めました(No. 15715)。
1870年代の初等地理教科書である、大槻修二が関った『日本地誌略』(No. 14184)や大家緂こう(合の右に攵)『本朝國盡』(1874)(No. 17450)は、松島竹島を日本領として記述しました。しかし1880年以降は、竹島と松島を隠岐国穏地郡に所属させた河井庫太郎『日本地學辭書』(1881)(塚本明毅と渡邊洪基が序文)を除いて、日本の地理書には竹島松島の記事は殆ど見られなくなりました。
下條正男氏は、太政官指令の外一島にあたる松島を、北澤正誠が欝陵島と断定した松島としていますが、これには根拠が乏しいように思います。
島根県が提出した伺書には、竹島と松島を詳述した文書が添付されました。その文書は、最初に「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許」と竹島の位置と大きさを示し、次いで物産の豊かなことが記されています。そして「次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」とあります。この記述から「竹島外一島本邦関係無之」の外一島は、松島=現竹島であることは明らかです。そして、太政官指令の「外一島にあたる松島を欝陵島と断定し、それが明治政府の見解となった事実」はありません(例えばNo. 14825)。
1881年北澤正誠は、『竹島考證』に「明治十三年天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ其地ニ至リ測量シ始テ松島ハ欝陵島ニシテ其他竹島ナル者ハ一個ノ岩石タルニ過キサルヲ知リ事始テ了然タリ」と書いています。しかしこれは、当時の外務省記録局長渡邉洪基から委任されて外交記録の編纂に従事した、北澤正誠の個人的な感慨でしょう。外務省或いは明治政府によって、「太政官指令で「竹島外一島本邦関係これなし」とされた松島は、1881年には欝陵島であったことが確認」されたことはありません。
外務省では、大久保利通が高く評価していた交信局長田邉太一は、明治10年頃相次いで出された「松島」開拓願に対し、この「松島」は欝陵島であり、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べ、実際の松島は朝鮮の蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していました(Nos. 14932, 15550)。
塚本明毅編『日本地誌提要』が隠岐の島嶼として松島と竹島を記し、日本領化を図ったことについては、私も下條氏と同意見です(Nos. 15715, 15720, 15815)。ただし、内務省地理局は、1881年に出版した『大日本府縣分轄圖』中の「大日本全國略圖」で、松島を隠岐・山陰道と同じ黄褐色に彩っていますが、1883年の改訂版では松島の彩色はありません。従って地理局は、一度、松島を隠岐に所属させたものの、後、太政官指令を受け入れ松島を日本の版図外にしたものと考えます(Nos. 15816, 15893, 15914, 15927, 15931)。
文部省で教科書行政に携った大槻修二は、1875年刊行の『日本地誌要略』「隠岐」条で、「抑此國ハ、日本海中西邊ノ絶島ニシテ、其西北洋中ニ、松島・竹島ノ両島アリ、共ニ朝鮮地方ニ接近スレドモ、亦居民統屬ナク、各方ノ人、時ニ來リテ、海獵ノ場トナスト云フ」と、松島竹島を統属なき地と見做しました。しかし彼は、1886年の『改正日本地誌要略』では、「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ」と、松島竹島を朝鮮領に改めました(No. 15715)。
1870年代の初等地理教科書である、大槻修二が関った『日本地誌略』(No. 14184)や大家緂こう(合の右に攵)『本朝國盡』(1874)(No. 17450)は、松島竹島を日本領として記述しました。しかし1880年以降は、竹島と松島を隠岐国穏地郡に所属させた河井庫太郎『日本地學辭書』(1881)(塚本明毅と渡邊洪基が序文)を除いて、日本の地理書には竹島松島の記事は殆ど見られなくなりました。
これは メッセージ 15715 (ararenotomo さん)への返信です.
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