Re: 鬱陵島と松島(現竹島)その2
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/04/06 18:31 投稿番号: [18187 / 18519]
>付属文書の一つ「原由之大畧」は「竹島」の沿革と地理を簡潔に記しましたが、特に、動植鉱物や産物を詳述しているのを興味深く感じました。
関心を持たれるのはよいと思いますが、あくまで参考程度で理解してよいかと私は考えています。それ以上に、何か意味があるのでしょうか。
>松島の記事「次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚(鳥)獸ヲ産ス」は、大西教保『隠岐古記集』(1823)の「亥ノ方凡四十餘里にして松島あり周り凡壱里程にして生木なき岩嶋といふ」より更に詳しくなっています。
距離で言えば隠岐古記集が当たっていますね。いずれにせよ、産物などの記録が詳しいことは「外一島」の問題においてはあまり重要なのではないと思います。
>一方、旧幕府で外交に携った交信局長田邉太一は、開拓願の松島は鬱陵島と確信していたので、他国領に船艦を派遣して調べるべきでない、と渡邉の意見に強く反対しました。
田邊の記録は資料としては参考にしますが、このお一人のお話だけを抜き出しても、あまり意味があるとも思っていません。
ararenotomo1様のご意見は、全て現代から見ればこれが正しかった、というだけの話であって、当時の視角が、一切抜け落ちているように思います。
>さらに田邉は、本来の松島について、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と、松島は朝鮮蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していました。
それが竹島問題にどう関係するのでしょうか。どうして「竹島考証」の全体を読み、どういう議論があり、どういう結論に至ったかを見ようとなさらないのでしょうか。
>1877年3月太政官は、島根県提出の文書に基づき、島根県の期待に反して、「竹島外一島本邦関係無之」と決定しました。この竹島は鬱陵島、外一島は本来の松島です。
ご提示の書き込みは「外一島は本来の松島」ということに対し、まったく根拠になっていません。ただの一点も、根拠はないといっていいでしょう。
もしかして、田邊の記録が、太政官の「竹島=鬱陵島、松島=外一島」に影響を及ぼしたとお考えでしょうか。文書に松島の産物が詳しく書いてあるから、これは太政官がリアンクール岩と判断して、判図外としたとお考えなのでしょうか。
よく分からないところですが、ともあれ根拠は何もない、という印象です。ただ「重要なのだ」という説明以外はありません。
太政官は、少なくとも、位置的には、竹島、松島を正確に把握していなかったと私は考えます。その上で竹島と松島を判図外としたという理解です。
その地理的理解は、1878年には確定し、1880年には天城による調査までなされた。アルゴノートとダジュレー、あるいは鬱陵島と竹嶼だった。それに則ればよいだけの話ではないでしょうか。
ararenotomo1様のご意見は「現代から見れば島根県の資料は松島を示していた」と言えるだけの話で、そこから一歩も出るものではなく、1877年年前後の他の資料との整合性もありません。当時の太政官の判断を何ら根拠をもって説明したものではないと思います。
島根県の文書が重要、ほかの資料は大事ではない、外務省でも田辺が正確に島の比定を行なっていた、松島の産物を正確に描いた文書はほかにもある。太政官が判断した外一島は現在の竹島に該当する。
そういうご意見ですが、申し訳ないですが、私には結果ありきのご意見にしか見えないのが正直なところです。
関心を持たれるのはよいと思いますが、あくまで参考程度で理解してよいかと私は考えています。それ以上に、何か意味があるのでしょうか。
>松島の記事「次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚(鳥)獸ヲ産ス」は、大西教保『隠岐古記集』(1823)の「亥ノ方凡四十餘里にして松島あり周り凡壱里程にして生木なき岩嶋といふ」より更に詳しくなっています。
距離で言えば隠岐古記集が当たっていますね。いずれにせよ、産物などの記録が詳しいことは「外一島」の問題においてはあまり重要なのではないと思います。
>一方、旧幕府で外交に携った交信局長田邉太一は、開拓願の松島は鬱陵島と確信していたので、他国領に船艦を派遣して調べるべきでない、と渡邉の意見に強く反対しました。
田邊の記録は資料としては参考にしますが、このお一人のお話だけを抜き出しても、あまり意味があるとも思っていません。
ararenotomo1様のご意見は、全て現代から見ればこれが正しかった、というだけの話であって、当時の視角が、一切抜け落ちているように思います。
>さらに田邉は、本来の松島について、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と、松島は朝鮮蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していました。
それが竹島問題にどう関係するのでしょうか。どうして「竹島考証」の全体を読み、どういう議論があり、どういう結論に至ったかを見ようとなさらないのでしょうか。
>1877年3月太政官は、島根県提出の文書に基づき、島根県の期待に反して、「竹島外一島本邦関係無之」と決定しました。この竹島は鬱陵島、外一島は本来の松島です。
ご提示の書き込みは「外一島は本来の松島」ということに対し、まったく根拠になっていません。ただの一点も、根拠はないといっていいでしょう。
もしかして、田邊の記録が、太政官の「竹島=鬱陵島、松島=外一島」に影響を及ぼしたとお考えでしょうか。文書に松島の産物が詳しく書いてあるから、これは太政官がリアンクール岩と判断して、判図外としたとお考えなのでしょうか。
よく分からないところですが、ともあれ根拠は何もない、という印象です。ただ「重要なのだ」という説明以外はありません。
太政官は、少なくとも、位置的には、竹島、松島を正確に把握していなかったと私は考えます。その上で竹島と松島を判図外としたという理解です。
その地理的理解は、1878年には確定し、1880年には天城による調査までなされた。アルゴノートとダジュレー、あるいは鬱陵島と竹嶼だった。それに則ればよいだけの話ではないでしょうか。
ararenotomo1様のご意見は「現代から見れば島根県の資料は松島を示していた」と言えるだけの話で、そこから一歩も出るものではなく、1877年年前後の他の資料との整合性もありません。当時の太政官の判断を何ら根拠をもって説明したものではないと思います。
島根県の文書が重要、ほかの資料は大事ではない、外務省でも田辺が正確に島の比定を行なっていた、松島の産物を正確に描いた文書はほかにもある。太政官が判断した外一島は現在の竹島に該当する。
そういうご意見ですが、申し訳ないですが、私には結果ありきのご意見にしか見えないのが正直なところです。
これは メッセージ 18186 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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