宋炳基氏の地図認識2
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/11/08 01:44 投稿番号: [17588 / 18519]
第八章「独島領有権エッセンス」の205pには続いて次のような文章があります。
引用開始
一方、掃討官朴錫昌『欝陵島図形』(1711)は欝陵本島から東2・5kmに位置する今日の竹島(竹嶼)を「所謂于山島」と記した。さらに、時代が少し下ると「所謂于山島」と記入した地図がみられる。
しかし、于山・欝陵1島説の論拠になった「所謂于山島」系統の地図は19世紀末期になって消滅したようである。それは、検察使李奎遠の欝陵島外図(1882)がその島を竹島と記入したためである。
引用終わり
竹嶼を「所謂于山島」と記したのであれば、于山島は竹島=独島ではなく竹嶼のはずであり、19世紀末期になって消滅したからといって于山・欝陵1島説の論拠であることを否定することはできないはずですが、この箇所ではこれらの疑問についてはなにも語られていません。
但し、第八章の195p序文にあたる部分にこのような記述があります。
引用開始
本章では欝陵島掃討や開拓の歴史は扱わないことにする。それらは欝陵島経営上において重要な意味を持つが、領有権論争とは直接の関連がないためである。
引用終わり
私はこの文章を書くことによって、宋炳基氏は掃討官朴錫昌の『欝陵島図形』とその系列の地図の領有権論争における証拠能力を否定しようとしているのではないかと考えました。
宋炳基氏の地図認識をもう一度まとめると次のようになります。
・掃討制度の実施で欝陵島方面の地理が明らかになることによって鄭尚驥の「東国地図」に于山島の位置が明確に浮き彫りになった。
・掃討制度によって欝陵島を掃討した朴錫昌は竹嶼を于山島と記した。
そうであるならば鄭尚驥の「東国地図」と朴錫昌の『欝陵島図形』に記された于山島は同じ島を指していると解釈するとすっきりするのではないかと私は考えます。
しかしながら宋炳基氏にはそのように考えるわけにはいかない事情があるのではないでしょうか。
これは メッセージ 17587 (yabutarou01 さん)への返信です.
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