宋炳基氏の地図認識1
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/11/08 01:40 投稿番号: [17587 / 18519]
makotoさん
>>『欝陵島図形』の「所謂于山島」が竹嶼であることを認めたのだとすると、于山島は独島でないと認めたことにもなりますよね。
驚くべきことに、「独島領有権エッセンス」を読む限り宋炳基氏は「于山島は独島でないと認めた」とは解釈できません。
第八章「独島領有権エッセンス」の204pから205pにかけてまずこのような文章があります。
引用開始
掃討制度の実施で欝陵島方面の地理が明らかになるにつれ、18世紀初期、遅くとも『彊界考』が編纂された18世紀中期には日本との国境もよりはっきりと見定められるようになったのである。
欝陵島についての地理的知識の拡大は地図作製にも影響を与え、于山島の位置が明確に浮き彫りになったのも注目される。従来の地図、たとえば『新増東国輿地勝覧』に掲載されている「八道総図」や「江原道図」は于山島を内陸側に、欝陵島をその東にして、ほとんど同じ大きさで近い位置に描いている。
ところが鄭尚驥(1678〜1752)の「東国地図」に至り、欝陵島が内陸側に、于山島がその東側に移るのみならず、距離や大きさが正確に表示されたのである。
「東国地図」はその後の地図製作に多大な影響を与えた。「東国地図」を継承した地図で代表的なのは、19世紀初期に作製された『海佐全図』である。金大建『朝鮮地図』(1846)も欝陵島と独島を本来の位置に適当な大きさで描いてあるので、あえて分類すれば「東国地図」系統と見られる。
引用終わり
掃討制度の実施で欝陵島方面の地理が明らかになり鄭尚驥(チョン・サンギ)の「東国地図」や同系統の『海佐全図』・『朝鮮地図』で于山島が欝陵島の東側に移り(独島として)距離や大きさが正確に表示された、まとめるとこうなります。
第四章の同じ文章の「東国地図」の記述には注釈が付けられていて、呉尚学氏の論文が紹介されています。
呉尚学氏の論文に載せられている「東国地図」は以下の地図です。
朝鮮時代地図に表現された鬱陵島 ・ 独島認識の変化(後ろの四つの地図)
http://toron.chu.jp/take/krobject/ossong3.html
たしかに于山島が欝陵島の東側にありますが、これが竹島=独島として距離や大きさが正確に表示されているとは私はとても思えません。
しかもこの地図は鄭尚驥の死後三年以上後に鄭尚驥ではない別人が描いた「東国地図」なわけですが、グーグルで検索して発見した鄭尚驥本人が描いた「東国地図」には于山島が欝陵島の北東側、すなわち竹嶼と同じ位置にあるように見えなくもありません。
鄭尚驥の「東国地図」(13番目の紺色の地図)
http://kr.blog.yahoo.com/krblog/4255.html?p=1&pm=l&tc=42&tt=1255088462
『欝陵島図形』の「所謂于山島」が竹嶼であると考えていた呉尚学氏は、とても気まずかったので鄭尚驥ではない別人の「東国地図」を自分の論文に載せてしまったのかもしれません。
鄭尚驥の「東国地図」の系列地図については、私のサイトのこちらのページも参考にしてください。
于山島の形状比較(金大建『朝鮮地図』のフランス語版あり)
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/5.html
保坂教授の論説を検証する(「東国地図」の系統の「海東輿地図」と『海佐全図』の系統の地図あり)
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/a/newpage2.html
(続く)
>>『欝陵島図形』の「所謂于山島」が竹嶼であることを認めたのだとすると、于山島は独島でないと認めたことにもなりますよね。
驚くべきことに、「独島領有権エッセンス」を読む限り宋炳基氏は「于山島は独島でないと認めた」とは解釈できません。
第八章「独島領有権エッセンス」の204pから205pにかけてまずこのような文章があります。
引用開始
掃討制度の実施で欝陵島方面の地理が明らかになるにつれ、18世紀初期、遅くとも『彊界考』が編纂された18世紀中期には日本との国境もよりはっきりと見定められるようになったのである。
欝陵島についての地理的知識の拡大は地図作製にも影響を与え、于山島の位置が明確に浮き彫りになったのも注目される。従来の地図、たとえば『新増東国輿地勝覧』に掲載されている「八道総図」や「江原道図」は于山島を内陸側に、欝陵島をその東にして、ほとんど同じ大きさで近い位置に描いている。
ところが鄭尚驥(1678〜1752)の「東国地図」に至り、欝陵島が内陸側に、于山島がその東側に移るのみならず、距離や大きさが正確に表示されたのである。
「東国地図」はその後の地図製作に多大な影響を与えた。「東国地図」を継承した地図で代表的なのは、19世紀初期に作製された『海佐全図』である。金大建『朝鮮地図』(1846)も欝陵島と独島を本来の位置に適当な大きさで描いてあるので、あえて分類すれば「東国地図」系統と見られる。
引用終わり
掃討制度の実施で欝陵島方面の地理が明らかになり鄭尚驥(チョン・サンギ)の「東国地図」や同系統の『海佐全図』・『朝鮮地図』で于山島が欝陵島の東側に移り(独島として)距離や大きさが正確に表示された、まとめるとこうなります。
第四章の同じ文章の「東国地図」の記述には注釈が付けられていて、呉尚学氏の論文が紹介されています。
呉尚学氏の論文に載せられている「東国地図」は以下の地図です。
朝鮮時代地図に表現された鬱陵島 ・ 独島認識の変化(後ろの四つの地図)
http://toron.chu.jp/take/krobject/ossong3.html
たしかに于山島が欝陵島の東側にありますが、これが竹島=独島として距離や大きさが正確に表示されているとは私はとても思えません。
しかもこの地図は鄭尚驥の死後三年以上後に鄭尚驥ではない別人が描いた「東国地図」なわけですが、グーグルで検索して発見した鄭尚驥本人が描いた「東国地図」には于山島が欝陵島の北東側、すなわち竹嶼と同じ位置にあるように見えなくもありません。
鄭尚驥の「東国地図」(13番目の紺色の地図)
http://kr.blog.yahoo.com/krblog/4255.html?p=1&pm=l&tc=42&tt=1255088462
『欝陵島図形』の「所謂于山島」が竹嶼であると考えていた呉尚学氏は、とても気まずかったので鄭尚驥ではない別人の「東国地図」を自分の論文に載せてしまったのかもしれません。
鄭尚驥の「東国地図」の系列地図については、私のサイトのこちらのページも参考にしてください。
于山島の形状比較(金大建『朝鮮地図』のフランス語版あり)
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/5.html
保坂教授の論説を検証する(「東国地図」の系統の「海東輿地図」と『海佐全図』の系統の地図あり)
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/a/newpage2.html
(続く)
これは メッセージ 17583 (takeshima_makoto_japan さん)への返信です.
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