西村捨三の照会1
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/07/26 11:02 投稿番号: [16976 / 18519]
明治期の外一島太政官指令について、興味深いことを発見しました。
半月城さんは自らのサイトで外務省記録8324「内務書記官 西村捨三の外務省書記官宛照会」を引用した堀和生氏の論文を引用してこのようにお書きになっています。
(引用開始)
太政官が竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした指令は、伺書が提出された内務省に対して回答されたので、外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です。他部署がそれを公式に知ることができるのは、内務省からそれについての通知があった場合のみです。実際、外務省はそうした公式通知で太政官指令を知ったようで、堀和生氏はこう記しました。
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1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してしなかったのである(注1)。
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(引用終わり)
太政官指令後の竹島=独島認識
http://www.han.org/a/half-moon/hm121.html
これを読むと半月城さんはこのように主張されているようです。
内務省の「西村捨三の照会」によって外務省は竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした太政官の指令書の存在を知った。
外務省は太政官指令の「竹島外一島」の「一島」が松島であり竹島=独島を指していることを知りながら内務省に松島(竹島=独島)は日本領ではないかなどと異論を申したてていない。
したがって外務省は内務省の竹島=独島放棄を追認したと解釈できる。
半月城さんのサイトには同じような文章がいくつか見られます。
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#464
軍艦による調査の翌年、内務省は念をいれ領土の確認を行いました。外務省あてに、松島と竹島を版図外とした先の太政官指令書を付して鬱陵島の現状を照会しました。それに対して、外務省は何らまったく異議をとなえませんでした。外務省は、すでに1870年に朝鮮を視察したうえで「竹島松島朝鮮付属」という認識を「朝鮮国交際始末内探書」にまとめていましたので当然といえます。
http://www.han.org/a/half-moon/hm069.html
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明治政府関係機関の竹島=独島認識
その後、1881年、内務省は竹島と松島を版図外とした太政官の指令書を付して外務省に鬱陵島の現状を照会したことがありました。これにたいして、外務省からはとくに異論の申したてはありませんでした。これは外務省の動きからみて当然でした。外務省は早くも 1870年、報告書「朝鮮国交際始末内探書」で「竹島 松島 朝鮮付属ニ相成候」と認識していました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm084.html
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竹島(独島)と日本の歴史認識
1880年7月軍艦天城がその松島に赴き測量した結果、同島が鬱陵島であることが判明した。(中略)そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してなかったのである。(中略)認識の程度に強弱はあっても、日本政府の関係諸機関のすべてが、同島を鬱陵島と合わせて朝鮮領だとみていたことは明らかなことであった。
明治政府は、竹島(独島)は朝鮮領であるという認識を持ちつつ、領土拡張欲から竹島(独島)を日本領に編入したことは、韓国から帝国主義的方法と批判されても無理からぬことと思われます。
http://www.han.org/a/half-moon/hm064.html
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外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論
1881年、内務省はこの指令書を添付して欝陵島の現状を外務省に照会しましたが、それに対して外務省は何ら異論を唱えませんでした。これは外務省も太政官指令書を了承したと考えられます。すなわち、外務省も松島(竹島=独島)を日本領でないと認めたと解されます。もちろん、渡邊流の竹島、松島は「暗に日本所属と見なしたるべし」という認識は、その後の公的資料には見られなくなりました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html
半月城さんは自らのサイトで外務省記録8324「内務書記官 西村捨三の外務省書記官宛照会」を引用した堀和生氏の論文を引用してこのようにお書きになっています。
(引用開始)
太政官が竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした指令は、伺書が提出された内務省に対して回答されたので、外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です。他部署がそれを公式に知ることができるのは、内務省からそれについての通知があった場合のみです。実際、外務省はそうした公式通知で太政官指令を知ったようで、堀和生氏はこう記しました。
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1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してしなかったのである(注1)。
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(引用終わり)
太政官指令後の竹島=独島認識
http://www.han.org/a/half-moon/hm121.html
これを読むと半月城さんはこのように主張されているようです。
内務省の「西村捨三の照会」によって外務省は竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした太政官の指令書の存在を知った。
外務省は太政官指令の「竹島外一島」の「一島」が松島であり竹島=独島を指していることを知りながら内務省に松島(竹島=独島)は日本領ではないかなどと異論を申したてていない。
したがって外務省は内務省の竹島=独島放棄を追認したと解釈できる。
半月城さんのサイトには同じような文章がいくつか見られます。
ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#464
軍艦による調査の翌年、内務省は念をいれ領土の確認を行いました。外務省あてに、松島と竹島を版図外とした先の太政官指令書を付して鬱陵島の現状を照会しました。それに対して、外務省は何らまったく異議をとなえませんでした。外務省は、すでに1870年に朝鮮を視察したうえで「竹島松島朝鮮付属」という認識を「朝鮮国交際始末内探書」にまとめていましたので当然といえます。
http://www.han.org/a/half-moon/hm069.html
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明治政府関係機関の竹島=独島認識
その後、1881年、内務省は竹島と松島を版図外とした太政官の指令書を付して外務省に鬱陵島の現状を照会したことがありました。これにたいして、外務省からはとくに異論の申したてはありませんでした。これは外務省の動きからみて当然でした。外務省は早くも 1870年、報告書「朝鮮国交際始末内探書」で「竹島 松島 朝鮮付属ニ相成候」と認識していました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm084.html
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竹島(独島)と日本の歴史認識
1880年7月軍艦天城がその松島に赴き測量した結果、同島が鬱陵島であることが判明した。(中略)そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してなかったのである。(中略)認識の程度に強弱はあっても、日本政府の関係諸機関のすべてが、同島を鬱陵島と合わせて朝鮮領だとみていたことは明らかなことであった。
明治政府は、竹島(独島)は朝鮮領であるという認識を持ちつつ、領土拡張欲から竹島(独島)を日本領に編入したことは、韓国から帝国主義的方法と批判されても無理からぬことと思われます。
http://www.han.org/a/half-moon/hm064.html
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外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論
1881年、内務省はこの指令書を添付して欝陵島の現状を外務省に照会しましたが、それに対して外務省は何ら異論を唱えませんでした。これは外務省も太政官指令書を了承したと考えられます。すなわち、外務省も松島(竹島=独島)を日本領でないと認めたと解されます。もちろん、渡邊流の竹島、松島は「暗に日本所属と見なしたるべし」という認識は、その後の公的資料には見られなくなりました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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