外務省パンフ批判7、講和条約(2)
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/05/05 11:18 投稿番号: [16524 / 18519]
韓国政府は講和条約当時において、竹島=独島が欝陵島の付属島であるという論理だけでは少し弱いとみたのか、条約に竹島=独島を韓国領として明記させるべく努力したことは、その一端を外務省のパンフレットが記すところです。
その努力は当初は実を結び、アメリカやイギリスの各講和条約草案で竹島=独島は韓国領とされました。これは韓国が同島を統治していた下記の状況からも順当な案でした。
1946年1月、竹島=独島は連合軍の SCAPIN 677号指令により日本の支配から切り離されて米軍政庁の管轄下に置かれました。しかし、韓国は1948年に独立するや、米軍政庁から竹島=独島も正式に引き継ぎました。
引き継ぎにあたり、韓国は竹島=独島を憲法4条や関連法規で韓国領と定め、慶尚北道の管轄下に置きました。これらの一連の措置に対して連合軍はもちろん、日本から何の異議申し立てもなされませんでした。国際法上も道義上も何ら問題のない合法的な措置でした。
引き継ぎが正当になされたことは、その後の駐韓米軍が韓国政府へ竹島=独島使用願いを提出したことからも確認されます。1951年6月20日、アメリカ第8軍のコルター将軍は竹島=独島を爆撃訓練に使用したいとの許可願いを張勉首相へ提出し、公式に許可を得ました(注2)。米軍政庁が竹島=独島を完全に韓国へ引き渡したことを示しています。
そうした流れに対して、日本はアメリカへ猛然とロビー活動をおこないました。具体的には、事実上の駐日大使ともいえるシーボルド駐日政治顧問へ働きかけました。それが功を奏し、シーボルドは竹島=独島を日本領とし、そこに気象およびレーダー局を設置することによる安全保障面の利点を国務省へ説きました。
竹島=独島の軍事施設を韓国の統治下で設置するのは、朝鮮戦争で領土範囲が目まぐるしく変化していた当時の状況からすると安定的な運用にリスクがありました。そのため、シーボルドは日本統治下で設置するほうが得策と判断したようです。
当時、米ソ対立の冷戦が極点に達していたので、シーボルドの提言は効果的だったようです。アメリカは独自の第6次草案で竹島=独島を日本領としました。
しかし、条約はアメリカ単独の考えで定まるものではなく、連合軍を構成する各国の承認を得る必要があります。特に竹島=独島を韓国領とするイギリス草案との調整は重要でした。結局、米英共同草案で竹島=独島を日本領とする条文は除かれました。
外務省のパンフレットはふれませんでしたが、注目すべきは、竹島=独島を自国領とする日韓両国の主張は共に斥けられた厳然たる事実です。
7月9日、米英共同の第2次共同草案はダレス国務長官顧問から梁祐燦駐米韓国大使へ提示されました。しかし、その時点ですら、アメリカ国務省の見解は一様ではありませんでした。
7月13日、北東アジア課長のアシスタントであるフィアリーは、同省の地理担当官であるボグスに南沙諸島やリアンコールト岩など問題になりそうな島嶼についての意見を求めました。ボグスは、リアンコールト岩を日本が放棄する島のリストに加えるよう、こう進言しました(注3)。
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リアンコールト岩
リアンコールト岩(タケシマ)は、1949年の条約草案に日本が朝鮮に対して放棄する島とされている。日本外務省が刊行した「日本周辺の小島」4章(1947.6月)にリアンクール岩が含まれている。そのため、特に条約草案で次のように名前を挙げるのが望ましい(第2章):
(a) 日本は朝鮮の独立を認め、済州島や巨文島、欝陵島、リアンコールト岩を含む朝鮮に対するすべての権利や権原を放棄する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
条約調印のわずか2か月前の段階でも、まだ国務省内でリアンコールト岩を韓国領と明記すべきだとの意見が根強かったことが覗えます。
それから3日後の16日、ボグスはフィアリーへさらに進言し「リアンコールト岩には韓国名がない」とか、「韓国製の地図にリアンコールト岩」はないなどの追加情報をもたらしました。実は、地理担当官のボグスですらリアンコールト岩が韓国で独島と呼ばれていたことを知らなかったのでした。
(つづく)
その努力は当初は実を結び、アメリカやイギリスの各講和条約草案で竹島=独島は韓国領とされました。これは韓国が同島を統治していた下記の状況からも順当な案でした。
1946年1月、竹島=独島は連合軍の SCAPIN 677号指令により日本の支配から切り離されて米軍政庁の管轄下に置かれました。しかし、韓国は1948年に独立するや、米軍政庁から竹島=独島も正式に引き継ぎました。
引き継ぎにあたり、韓国は竹島=独島を憲法4条や関連法規で韓国領と定め、慶尚北道の管轄下に置きました。これらの一連の措置に対して連合軍はもちろん、日本から何の異議申し立てもなされませんでした。国際法上も道義上も何ら問題のない合法的な措置でした。
引き継ぎが正当になされたことは、その後の駐韓米軍が韓国政府へ竹島=独島使用願いを提出したことからも確認されます。1951年6月20日、アメリカ第8軍のコルター将軍は竹島=独島を爆撃訓練に使用したいとの許可願いを張勉首相へ提出し、公式に許可を得ました(注2)。米軍政庁が竹島=独島を完全に韓国へ引き渡したことを示しています。
そうした流れに対して、日本はアメリカへ猛然とロビー活動をおこないました。具体的には、事実上の駐日大使ともいえるシーボルド駐日政治顧問へ働きかけました。それが功を奏し、シーボルドは竹島=独島を日本領とし、そこに気象およびレーダー局を設置することによる安全保障面の利点を国務省へ説きました。
竹島=独島の軍事施設を韓国の統治下で設置するのは、朝鮮戦争で領土範囲が目まぐるしく変化していた当時の状況からすると安定的な運用にリスクがありました。そのため、シーボルドは日本統治下で設置するほうが得策と判断したようです。
当時、米ソ対立の冷戦が極点に達していたので、シーボルドの提言は効果的だったようです。アメリカは独自の第6次草案で竹島=独島を日本領としました。
しかし、条約はアメリカ単独の考えで定まるものではなく、連合軍を構成する各国の承認を得る必要があります。特に竹島=独島を韓国領とするイギリス草案との調整は重要でした。結局、米英共同草案で竹島=独島を日本領とする条文は除かれました。
外務省のパンフレットはふれませんでしたが、注目すべきは、竹島=独島を自国領とする日韓両国の主張は共に斥けられた厳然たる事実です。
7月9日、米英共同の第2次共同草案はダレス国務長官顧問から梁祐燦駐米韓国大使へ提示されました。しかし、その時点ですら、アメリカ国務省の見解は一様ではありませんでした。
7月13日、北東アジア課長のアシスタントであるフィアリーは、同省の地理担当官であるボグスに南沙諸島やリアンコールト岩など問題になりそうな島嶼についての意見を求めました。ボグスは、リアンコールト岩を日本が放棄する島のリストに加えるよう、こう進言しました(注3)。
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リアンコールト岩
リアンコールト岩(タケシマ)は、1949年の条約草案に日本が朝鮮に対して放棄する島とされている。日本外務省が刊行した「日本周辺の小島」4章(1947.6月)にリアンクール岩が含まれている。そのため、特に条約草案で次のように名前を挙げるのが望ましい(第2章):
(a) 日本は朝鮮の独立を認め、済州島や巨文島、欝陵島、リアンコールト岩を含む朝鮮に対するすべての権利や権原を放棄する。
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条約調印のわずか2か月前の段階でも、まだ国務省内でリアンコールト岩を韓国領と明記すべきだとの意見が根強かったことが覗えます。
それから3日後の16日、ボグスはフィアリーへさらに進言し「リアンコールト岩には韓国名がない」とか、「韓国製の地図にリアンコールト岩」はないなどの追加情報をもたらしました。実は、地理担当官のボグスですらリアンコールト岩が韓国で独島と呼ばれていたことを知らなかったのでした。
(つづく)
これは メッセージ 16523 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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