『日本地誌提要』の竹島・松島、舩杉批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/15 10:22 投稿番号: [15673 / 18519]
重要な最後の段落を口語訳にします。
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
ここで注目すべきは、竹島・松島の一対が「本州の属島」とされなかったことです。両島は「本州の属島」でなければ、日本の領土外になります。これは、前年に太政官から内務省へ「竹島外一島」を版図外にするとの指令があったので、それに従ったようです。
この距離や位置関係はそのまま『大日本府縣分轄圖』中の「大日本全國略圖」(1881)に反映されました。同一の担当機関がその地図を作成したので当然の結果です。
『日本地誌提要』に書かれた島相互の距離を「磯竹島略圖」と比較すると、「磯竹島略圖」のほうが全体的に少し長くなっています。それでも両者はほぼ似たような位置関係にあります。
この時、『日本地誌提要』は「磯竹島略圖」が記述した数値を採用しなかったのですが、理由は「磯竹島略圖」の情報を古いと判断したのでしょうか。しかし、より確かだと信じた情報源が「土俗の伝え」とは頼りない話です。もともと「本州の属島」ではない話題なので真剣味が薄かったようです。
ま、土俗の伝えにせよ、大谷家の伝えにせよ、竹島は現在の欝陵島、松島は現在の竹島=独島とされているので、内務省は公的な地誌においても竹島=独島が本州の属島でない、すなわち日本領でないと確認したことになります。同時に、内務省は隠岐の沖合にはその2島しかないと認識していたことも注目されます。
さらに特筆すべきは、内務省が架空のアルゴノート島を描いた地図に惑わされた形跡がみじんもないことです。アルゴノートは、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら偽存の島として点線で描かれていただけに、地図・地誌の専門機関がそれに惑わされなかったのは、さすがというか当然というべきか、とにかく順当な判断です。
以上のような考察の結果からすると、舩杉氏の下記の指摘は的はずれではないでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島(実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
内務省の認識、すなわち「日本政府の地理的認識」は、江戸時代に竹島・松島へ渡海し、漁業・商業活動をおこなっていた人たちに伝承された地理的認識や地図にもとづくものであり、誤った西洋の地図に書かれたアルゴノート島に惑わされた痕跡は皆無です。
それにもかかわらず、あえて舩杉氏がアルゴノートをもちだしたのは、下條説の根拠を模索したからでしょうか? 下條正男氏は、島根県がいう「外一島」は現在の竹島=独島であるが、太政官のいう「外一島」は現在の欝陵島であると強弁しました。
舩杉氏はその下條説を支持するつもりでしょうか? また「外一島」を一体どこに比定するつもりでしょうか? 肝心なところが不明です。
舩杉氏に対する疑問をさらにつづけます。前回書いた「里」と「浬(カイリ)」問題の続きですが、上記にみられるように『日本地誌提要』でも36町を1里としていることが明白です。したがって、同書に書かれた「里」は決して「浬」とは解されません。ところが、舩杉氏は、同書の里数と大差ない「磯竹島略圖」の「里」を「浬」と断言しましたが、これは明白な誤りではないでしょうか?
舩杉氏がそのような解釈をするところをみると、同氏はそもそも地誌課の『日本地誌提要』を知らないように見えます。しかし、地理の専門家なら『日本地誌提要』を知らないはずはないので、同氏はその資料を意図的に排除したと見るべきかも知れません。いずれにせよ、核心になる資料にふれないで「日本政府の地理的認識」を大上段に説く舩杉氏の論説は、私には支離滅裂なようにみえます。
(つづく)
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
ここで注目すべきは、竹島・松島の一対が「本州の属島」とされなかったことです。両島は「本州の属島」でなければ、日本の領土外になります。これは、前年に太政官から内務省へ「竹島外一島」を版図外にするとの指令があったので、それに従ったようです。
この距離や位置関係はそのまま『大日本府縣分轄圖』中の「大日本全國略圖」(1881)に反映されました。同一の担当機関がその地図を作成したので当然の結果です。
『日本地誌提要』に書かれた島相互の距離を「磯竹島略圖」と比較すると、「磯竹島略圖」のほうが全体的に少し長くなっています。それでも両者はほぼ似たような位置関係にあります。
この時、『日本地誌提要』は「磯竹島略圖」が記述した数値を採用しなかったのですが、理由は「磯竹島略圖」の情報を古いと判断したのでしょうか。しかし、より確かだと信じた情報源が「土俗の伝え」とは頼りない話です。もともと「本州の属島」ではない話題なので真剣味が薄かったようです。
ま、土俗の伝えにせよ、大谷家の伝えにせよ、竹島は現在の欝陵島、松島は現在の竹島=独島とされているので、内務省は公的な地誌においても竹島=独島が本州の属島でない、すなわち日本領でないと確認したことになります。同時に、内務省は隠岐の沖合にはその2島しかないと認識していたことも注目されます。
さらに特筆すべきは、内務省が架空のアルゴノート島を描いた地図に惑わされた形跡がみじんもないことです。アルゴノートは、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら偽存の島として点線で描かれていただけに、地図・地誌の専門機関がそれに惑わされなかったのは、さすがというか当然というべきか、とにかく順当な判断です。
以上のような考察の結果からすると、舩杉氏の下記の指摘は的はずれではないでしょうか。
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明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島(実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。
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内務省の認識、すなわち「日本政府の地理的認識」は、江戸時代に竹島・松島へ渡海し、漁業・商業活動をおこなっていた人たちに伝承された地理的認識や地図にもとづくものであり、誤った西洋の地図に書かれたアルゴノート島に惑わされた痕跡は皆無です。
それにもかかわらず、あえて舩杉氏がアルゴノートをもちだしたのは、下條説の根拠を模索したからでしょうか? 下條正男氏は、島根県がいう「外一島」は現在の竹島=独島であるが、太政官のいう「外一島」は現在の欝陵島であると強弁しました。
舩杉氏はその下條説を支持するつもりでしょうか? また「外一島」を一体どこに比定するつもりでしょうか? 肝心なところが不明です。
舩杉氏に対する疑問をさらにつづけます。前回書いた「里」と「浬(カイリ)」問題の続きですが、上記にみられるように『日本地誌提要』でも36町を1里としていることが明白です。したがって、同書に書かれた「里」は決して「浬」とは解されません。ところが、舩杉氏は、同書の里数と大差ない「磯竹島略圖」の「里」を「浬」と断言しましたが、これは明白な誤りではないでしょうか?
舩杉氏がそのような解釈をするところをみると、同氏はそもそも地誌課の『日本地誌提要』を知らないように見えます。しかし、地理の専門家なら『日本地誌提要』を知らないはずはないので、同氏はその資料を意図的に排除したと見るべきかも知れません。いずれにせよ、核心になる資料にふれないで「日本政府の地理的認識」を大上段に説く舩杉氏の論説は、私には支離滅裂なようにみえます。
(つづく)
これは メッセージ 15672 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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