Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/04/18 19:42 投稿番号: [15527 / 18519]
ararenotomoさん、こんにちは。Am I AHO です。
さて、興味深い研究ノートを拝読致しましたが、幾つか気になる点を指摘させて頂きます。
>『朝鮮開化史』のこの記事は、1899年9月23日付『皇城新聞』「鬱陵島事况」の冒頭にある「其(鬱陵島)附屬ノ小六島中デ最著者ハ于山島竹島ナリ」との関連を想起させます。
『朝鮮開化史』を読む限りでは『皇城新聞』との関連は感じないのですが。
むしろ、『皇城新聞』では于山島竹島を附属の島と記載しているのに反して、『朝鮮開化史』では于山島は附属の島ではなく鬱陵島そのものを指しているように思えますね。
>上記の記事は校正の間に『皇城新聞』を見て書き入れたか、或は共通の資料から引用したものと思われます。
上記の理由で、この見解には賛同致しかねます。
>「松島ハ竹島ヨリ我近キ方ニアレハ日本ニ属シ」(松島之議二)として領有化を謀った渡邉洪基らが設立した、興亜会の中国語学校で学んだ恒屋盛服が、「松島ハ于山ナリ」と断言した、田邉太一と同じ認識であったことは大変興味深く感じます。
いえ、着眼点はそこではなく、その後の海軍の調査でしょう。
現在までの議論の推移を観ますと、太政官指令までは日本が獨島を放棄したことに根本的な異論はないようですが、この認識は当時の内務省、外務省、陸軍(以下「陸軍系の認識」と云う)に共通のもののようです。
一方で海軍は、独自の調査によって、それまでの竹島を公式に松島と命名します。これによって、日本政府内に一島二名の認識が共存する事態になるのですね。これは、かつて川上氏らが唱え現在は完全に否定されている「島名の混乱説」とは異なり、起源を太政官指令後に行われた海軍の調査によるとする考えです。
後年、外務省などは海軍の認識に変わって行くのですが、そのことにより、一旦放棄したはずの松島が、和名を失ってりゃんこ島と呼ばれるようになり、1905年の編入に繋がるのです。
>最近、Gerry-Bevers氏は、上記『皇城新聞』の記事「小六島中デ最著者ハ于山島竹島」を「于山島=竹島」と解釈しました。
現時点で、Gerry-Bevers氏の論には、さしたる興味も湧かないので、関連部分はパスします。
さて、提示された『朝鮮開化史』と『皇城新聞』の両資料に共通する点があるとすれば、それは何かと申しますと、それは一にも二にも「石島」の記載がないことですね。
恒屋盛服が図らずも『朝鮮開化史』の中で鬱陵島の別名は「字音相近きに因る」と指摘しているとおり、当時の韓国では、地名は発音が主であって、漢字は借りてきて充てているだけなんですね。
そうすると、「石島」の可能性はかなり絞られてきます。
当時は韓国語の標準化は未着手ですから、素直に現地人が「ドクト」と発音した可能性が有力です。しかし一方では、現地に居住していた日本人がソウル言葉(後の標準語=現代の韓国語に近い発音)で「ソクト」と読み、「鼠項島」と書いた可能性もあります。
また、同時に二つの「石島」が同時期に併存した可能性もあります。
即ち、韓国人は勅令の「石島」を「ドクト」と受け取り、「字音相近きに因る」獨島と書くこともあった、と同時に、現地の日本人は日本人で適当に観音島を「ソクト」と解釈して「鼠項島」と命名したのかもしれません。
さて、興味深い研究ノートを拝読致しましたが、幾つか気になる点を指摘させて頂きます。
>『朝鮮開化史』のこの記事は、1899年9月23日付『皇城新聞』「鬱陵島事况」の冒頭にある「其(鬱陵島)附屬ノ小六島中デ最著者ハ于山島竹島ナリ」との関連を想起させます。
『朝鮮開化史』を読む限りでは『皇城新聞』との関連は感じないのですが。
むしろ、『皇城新聞』では于山島竹島を附属の島と記載しているのに反して、『朝鮮開化史』では于山島は附属の島ではなく鬱陵島そのものを指しているように思えますね。
>上記の記事は校正の間に『皇城新聞』を見て書き入れたか、或は共通の資料から引用したものと思われます。
上記の理由で、この見解には賛同致しかねます。
>「松島ハ竹島ヨリ我近キ方ニアレハ日本ニ属シ」(松島之議二)として領有化を謀った渡邉洪基らが設立した、興亜会の中国語学校で学んだ恒屋盛服が、「松島ハ于山ナリ」と断言した、田邉太一と同じ認識であったことは大変興味深く感じます。
いえ、着眼点はそこではなく、その後の海軍の調査でしょう。
現在までの議論の推移を観ますと、太政官指令までは日本が獨島を放棄したことに根本的な異論はないようですが、この認識は当時の内務省、外務省、陸軍(以下「陸軍系の認識」と云う)に共通のもののようです。
一方で海軍は、独自の調査によって、それまでの竹島を公式に松島と命名します。これによって、日本政府内に一島二名の認識が共存する事態になるのですね。これは、かつて川上氏らが唱え現在は完全に否定されている「島名の混乱説」とは異なり、起源を太政官指令後に行われた海軍の調査によるとする考えです。
後年、外務省などは海軍の認識に変わって行くのですが、そのことにより、一旦放棄したはずの松島が、和名を失ってりゃんこ島と呼ばれるようになり、1905年の編入に繋がるのです。
>最近、Gerry-Bevers氏は、上記『皇城新聞』の記事「小六島中デ最著者ハ于山島竹島」を「于山島=竹島」と解釈しました。
現時点で、Gerry-Bevers氏の論には、さしたる興味も湧かないので、関連部分はパスします。
さて、提示された『朝鮮開化史』と『皇城新聞』の両資料に共通する点があるとすれば、それは何かと申しますと、それは一にも二にも「石島」の記載がないことですね。
恒屋盛服が図らずも『朝鮮開化史』の中で鬱陵島の別名は「字音相近きに因る」と指摘しているとおり、当時の韓国では、地名は発音が主であって、漢字は借りてきて充てているだけなんですね。
そうすると、「石島」の可能性はかなり絞られてきます。
当時は韓国語の標準化は未着手ですから、素直に現地人が「ドクト」と発音した可能性が有力です。しかし一方では、現地に居住していた日本人がソウル言葉(後の標準語=現代の韓国語に近い発音)で「ソクト」と読み、「鼠項島」と書いた可能性もあります。
また、同時に二つの「石島」が同時期に併存した可能性もあります。
即ち、韓国人は勅令の「石島」を「ドクト」と受け取り、「字音相近きに因る」獨島と書くこともあった、と同時に、現地の日本人は日本人で適当に観音島を「ソクト」と解釈して「鼠項島」と命名したのかもしれません。
これは メッセージ 15525 (ararenotomo さん)への返信です.
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