Re:韓国の反論 報道に対する反論
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/02/25 06:23 投稿番号: [15434 / 18519]
(1)『年代不詳の鬱陵島の地図について』
▼最初に年代不詳と言った地図は1711年に鬱陵島の捜査官・三陟営将だったパク・ソクチャンの 描いた物。
=『所謂(いわゆる)于山島』と言う部分は、鬱陵島の北にある現在の三仙岩や象岩等と違い、 鬱陵島の南側に4つの島嶼と一緒に輪郭だけ表示。ところが実際の鬱陵島の南側には地図に 出ている島々に該当する島が無く、これは探査の過程で具体的な観察で描かれたと言うよりは、 伝えられて聞いた話を基に描いたと推定される。
=『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』は捜査官が具体的に調査をせずに、海岸に沿って長く竹が ある竹嶼(竹島)と、当時の安竜福の活動を通じて明確に現れた竹島(独島)を描いた物と推定 される。
奎章閣のhpによると、この地図の巻末には『自倭コウ倉移舟待風所拙書一句以標』とあり朴昌錫(パク・ソクチャン)が探査の過程で『倭コウ倉』に立ち寄ったことが明記されています。(『倭コウ倉』のコウはなぜかNGワードで書き込めない)
http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/MOK/MOK_NODEVIEW.jsp?setid=35951&pos=2&type=MOK&ptype=list&subtype=sm&cn=GK12166_00
『倭コウ倉』とは竹嶼(竹島)のすぐ近くにある地名であり、伝えられて聞いた話を基に描いたのではなく具体的な観察で描かれたのはあまりにも明らかです。(下の画像を参照)、
http://megalodon.jp/?url=http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/a.html&date=20070225012439
また、南側に存在しない島が描かれていることを根拠にして捜査官が具体的に調査をしていないと主張していますが、実は奎章閣のhpにある1882年の鬱陵島探査の様子を描いた『鬱陵島外図』よりも前に成立した18・19世紀の鬱陵島の詳しい地図のほぼすべてに、存在しない島が南側に描かれています。この時代に鬱陵島を具体的に調査をした人間は誰もいなかったのでしょうか、それとも北東アジア歴史財団で鬱陵島の古地図を具体的に調査をした人間は誰もいなかったのでしょうか。
17世紀以前に描かれた韓国の古地図には于山島はすべて、島が存在しないはずの鬱陵島の西側か北側に描かれています。
島根県のhpにあったpdfファイルのキャッシュ
http://www.google.com/search?q=cache:3Ueung_texMJ:www.pref.shi mane.lg.jp/soumu/takesima/chukanhoukoku/index.data/funasugi-ezu-list.pdf+%E8%A1%A8%E3%80%8C%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%8F%A4%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%81%AB%E3%81%BF%E3%82%8B%E4%BA%8E%E5%B1%B1%E5%B3%B6%E3%81%A8%E9%AC%B1%E9%99%B5%E5%B3%B6&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp
これらの地図はどうやら具体的な観察で描かれたのではなく伝えられて聞いた話を基に描かれたもののようですが、韓国人は于山国の時代から独島の位置を正確に認識していたはずなのに、伝えられて聞いた島の位置が間違っているのはなぜでしょうか。
そもそも韓国の学者は鬱陵島の古地図にある于山島はすべて竹島(独島)であって竹嶼(竹島)が于山島であるといった主張は日本人右翼の捏造であると断言していたはずです。それなのになぜいまごろになって、たとえ間違いであるとはいえ鬱陵島の古地図にある于山島が竹嶼(竹島)である可能性を認めたのでしょうか。いままではそのような可能性はなかったのでしょうか。
おまけにgoogleで検索すればすぐに分かるはずなのに『海長竹』を『海岸に沿って長く竹が ある』と訳しているのはなぜでしょうか。
続きはまた後で。
▼最初に年代不詳と言った地図は1711年に鬱陵島の捜査官・三陟営将だったパク・ソクチャンの 描いた物。
=『所謂(いわゆる)于山島』と言う部分は、鬱陵島の北にある現在の三仙岩や象岩等と違い、 鬱陵島の南側に4つの島嶼と一緒に輪郭だけ表示。ところが実際の鬱陵島の南側には地図に 出ている島々に該当する島が無く、これは探査の過程で具体的な観察で描かれたと言うよりは、 伝えられて聞いた話を基に描いたと推定される。
=『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』は捜査官が具体的に調査をせずに、海岸に沿って長く竹が ある竹嶼(竹島)と、当時の安竜福の活動を通じて明確に現れた竹島(独島)を描いた物と推定 される。
奎章閣のhpによると、この地図の巻末には『自倭コウ倉移舟待風所拙書一句以標』とあり朴昌錫(パク・ソクチャン)が探査の過程で『倭コウ倉』に立ち寄ったことが明記されています。(『倭コウ倉』のコウはなぜかNGワードで書き込めない)
http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/MOK/MOK_NODEVIEW.jsp?setid=35951&pos=2&type=MOK&ptype=list&subtype=sm&cn=GK12166_00
『倭コウ倉』とは竹嶼(竹島)のすぐ近くにある地名であり、伝えられて聞いた話を基に描いたのではなく具体的な観察で描かれたのはあまりにも明らかです。(下の画像を参照)、
http://megalodon.jp/?url=http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/a.html&date=20070225012439
また、南側に存在しない島が描かれていることを根拠にして捜査官が具体的に調査をしていないと主張していますが、実は奎章閣のhpにある1882年の鬱陵島探査の様子を描いた『鬱陵島外図』よりも前に成立した18・19世紀の鬱陵島の詳しい地図のほぼすべてに、存在しない島が南側に描かれています。この時代に鬱陵島を具体的に調査をした人間は誰もいなかったのでしょうか、それとも北東アジア歴史財団で鬱陵島の古地図を具体的に調査をした人間は誰もいなかったのでしょうか。
17世紀以前に描かれた韓国の古地図には于山島はすべて、島が存在しないはずの鬱陵島の西側か北側に描かれています。
島根県のhpにあったpdfファイルのキャッシュ
http://www.google.com/search?q=cache:3Ueung_texMJ:www.pref.shi mane.lg.jp/soumu/takesima/chukanhoukoku/index.data/funasugi-ezu-list.pdf+%E8%A1%A8%E3%80%8C%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%8F%A4%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%81%AB%E3%81%BF%E3%82%8B%E4%BA%8E%E5%B1%B1%E5%B3%B6%E3%81%A8%E9%AC%B1%E9%99%B5%E5%B3%B6&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp
これらの地図はどうやら具体的な観察で描かれたのではなく伝えられて聞いた話を基に描かれたもののようですが、韓国人は于山国の時代から独島の位置を正確に認識していたはずなのに、伝えられて聞いた島の位置が間違っているのはなぜでしょうか。
そもそも韓国の学者は鬱陵島の古地図にある于山島はすべて竹島(独島)であって竹嶼(竹島)が于山島であるといった主張は日本人右翼の捏造であると断言していたはずです。それなのになぜいまごろになって、たとえ間違いであるとはいえ鬱陵島の古地図にある于山島が竹嶼(竹島)である可能性を認めたのでしょうか。いままではそのような可能性はなかったのでしょうか。
おまけにgoogleで検索すればすぐに分かるはずなのに『海長竹』を『海岸に沿って長く竹が ある』と訳しているのはなぜでしょうか。
続きはまた後で。
これは メッセージ 15433 (yabutarou01 さん)への返信です.
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