『本朝地理志略』の「隠岐國竹嶋」
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2006/12/22 08:38 投稿番号: [15278 / 18519]
take_8591さん
>林羅山が「本朝地理志略」(1643年)で「隠岐の海上に竹島有り」と朝鮮に伝えています(no10197)から、「于山は即ち倭の所謂松島なり」よりも重要な情報である「蔚陵は即ち倭の所謂竹島なり」も「興地志」(1656年)に掲載されていたと推定するのは合理性があります。
『本朝地理志略』に関心を寄せて頂き有難うございます。『本朝地理志略』は「竹嶋」を隠岐国条に配した初出史料ですが、殆ど無視されてきたことを残念に思っていました。
『本朝地理志略』は、「林羅山個人の著作として成立した」簡略だが最初の近世地誌であり(白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版, 2004)、「日本全體の郷土地誌として見るべきもの丶一つ」(藤田元春『日本地理學史』刀江書院, 1942)と評価されました。
『本朝地理志略』は、羅山の息春斎と考槃が日本の人物・鳥獣・節事・四礼儀等を加え、『日本國事跡考=本朝事跡考』として、朝鮮通信使に贈られました。これは正徳4(1714)年に板行されたので、かなり広く知られる様になりました。しかし、これには羅山の名はありません。そのため例えば、「日本三景」は、羅山が『本朝地理志略』に初めて書きましたが、春斎が『日本国事跡考』に書いたのが始まりとされました。
下條正男氏も次のように述べています(『竹島は日韓どちらのものか』文春新書, 2004):幕府が鬱陵島を日本領と認識していた証拠はまだある。- - 林鵞峰と林讀耕斎が贈った『日本国記』の記事がそれである。『日本国記』は正徳年間に『本朝事跡考』として刊行されるが、その隠岐国条には「隠岐の海上に竹島(鬱陵島)あり」と記され、「竹多く、鰒多くして味甚だ美、海獣を葦鹿という」として、鬱陵島の特産物が特筆されている。
『日本國事跡考』は京都大学附属図書館からネットで公開されています。
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i191/image/01/i191s0001.html
「日本三景」の命名が羅山或はその子であろうと大した違いはありませんが、林羅山が「竹嶋」を「日本国地誌」の隠岐国条に記したことには重要な意味があるでしょう。羅山はその博識によって幕府の学術顧問のような立場にありました。諮問に答え、幕府の意向に沿う学問的根拠を与えるのが役目でした。さらに羅山は当時、朝鮮との外交文書起草まで管掌していました。従って、羅山が「竹嶋」を「隠岐國」に入れたことは、「林羅山個人の著作」とはいえ、幕府が「竹嶋」を日本領と認めた、と見做されるかもしれません。しかし、その後の「竹嶋」への幕府の対応は、領有化を図った羅山の意に反するものでした。
羅山が「竹嶋」を知ったのは阿倍正之からと思われます。羅山は晩年、しばしば阿倍正之と親しく語り合っており、寛永19(1642) 年には阿部正之の求めに応じて『弓書序』を著しています(鈴木健一『林羅山年譜稿』ぺりかん社, 1999)。さらに羅山はまた、「渡海事業」で獲れた「竹島串鮑」の相伴にも与っていたのかもしれません。「鰒多くして味甚だ美」はなかなか実感が籠っています。
羅山は幕府要人と親しかったので、羅山が「竹嶋」を「隠岐國」に所属させたことは、幕閣も承知していたでしょう。しかし幕府は、「竹嶋」が鬱陵島であると認識しており、外交問題になることを恐れていました。慶長19(1614)年、対馬藩主は朝鮮から次のような抗議を受けました。「礒竹嶋を看審せしの事、甚た其聞を驚かすものなり、- - 来使のいふ所此島慶尚・江原両道の洋中にありと、是我国のいはゆる鬱陵島なり、載てわか輿地の書にあり」(松浦允任『朝鮮通交大紀』1725, 田中健夫・田代和生校訂, 名著出版, 1978)。その後は元禄年間まで、「竹嶋」が外交の場に出ることは無かったようです。朝鮮としても「隠岐海上有竹嶋」では、「竹嶋」が鬱陵島であることに気付かなかったでしょう。
隠岐国を預地として治めていた松江藩も、「竹嶋」を「隠岐國」とするには消極的でした。「正保国絵図」の『出雲国絵図付隠岐国』には「竹嶋」は描かれていません(No.10197)。二十数年後、竹島・松島で以て日本の西北地を限ろうとした、羅山の孫弟子齋藤勘介の意図は、松江藩によって拒まれました。しかし彼は、「漢字という巨大な迷宮」(No.15135)をホンノ少シ利用して、「州」と書き(講談社『大字典』の一説)、「竹島・松島・隠岐」の三島を「隠州」に含めました(Nos.9572, 15178)。
>林羅山が「本朝地理志略」(1643年)で「隠岐の海上に竹島有り」と朝鮮に伝えています(no10197)から、「于山は即ち倭の所謂松島なり」よりも重要な情報である「蔚陵は即ち倭の所謂竹島なり」も「興地志」(1656年)に掲載されていたと推定するのは合理性があります。
『本朝地理志略』に関心を寄せて頂き有難うございます。『本朝地理志略』は「竹嶋」を隠岐国条に配した初出史料ですが、殆ど無視されてきたことを残念に思っていました。
『本朝地理志略』は、「林羅山個人の著作として成立した」簡略だが最初の近世地誌であり(白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版, 2004)、「日本全體の郷土地誌として見るべきもの丶一つ」(藤田元春『日本地理學史』刀江書院, 1942)と評価されました。
『本朝地理志略』は、羅山の息春斎と考槃が日本の人物・鳥獣・節事・四礼儀等を加え、『日本國事跡考=本朝事跡考』として、朝鮮通信使に贈られました。これは正徳4(1714)年に板行されたので、かなり広く知られる様になりました。しかし、これには羅山の名はありません。そのため例えば、「日本三景」は、羅山が『本朝地理志略』に初めて書きましたが、春斎が『日本国事跡考』に書いたのが始まりとされました。
下條正男氏も次のように述べています(『竹島は日韓どちらのものか』文春新書, 2004):幕府が鬱陵島を日本領と認識していた証拠はまだある。- - 林鵞峰と林讀耕斎が贈った『日本国記』の記事がそれである。『日本国記』は正徳年間に『本朝事跡考』として刊行されるが、その隠岐国条には「隠岐の海上に竹島(鬱陵島)あり」と記され、「竹多く、鰒多くして味甚だ美、海獣を葦鹿という」として、鬱陵島の特産物が特筆されている。
『日本國事跡考』は京都大学附属図書館からネットで公開されています。
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i191/image/01/i191s0001.html
「日本三景」の命名が羅山或はその子であろうと大した違いはありませんが、林羅山が「竹嶋」を「日本国地誌」の隠岐国条に記したことには重要な意味があるでしょう。羅山はその博識によって幕府の学術顧問のような立場にありました。諮問に答え、幕府の意向に沿う学問的根拠を与えるのが役目でした。さらに羅山は当時、朝鮮との外交文書起草まで管掌していました。従って、羅山が「竹嶋」を「隠岐國」に入れたことは、「林羅山個人の著作」とはいえ、幕府が「竹嶋」を日本領と認めた、と見做されるかもしれません。しかし、その後の「竹嶋」への幕府の対応は、領有化を図った羅山の意に反するものでした。
羅山が「竹嶋」を知ったのは阿倍正之からと思われます。羅山は晩年、しばしば阿倍正之と親しく語り合っており、寛永19(1642) 年には阿部正之の求めに応じて『弓書序』を著しています(鈴木健一『林羅山年譜稿』ぺりかん社, 1999)。さらに羅山はまた、「渡海事業」で獲れた「竹島串鮑」の相伴にも与っていたのかもしれません。「鰒多くして味甚だ美」はなかなか実感が籠っています。
羅山は幕府要人と親しかったので、羅山が「竹嶋」を「隠岐國」に所属させたことは、幕閣も承知していたでしょう。しかし幕府は、「竹嶋」が鬱陵島であると認識しており、外交問題になることを恐れていました。慶長19(1614)年、対馬藩主は朝鮮から次のような抗議を受けました。「礒竹嶋を看審せしの事、甚た其聞を驚かすものなり、- - 来使のいふ所此島慶尚・江原両道の洋中にありと、是我国のいはゆる鬱陵島なり、載てわか輿地の書にあり」(松浦允任『朝鮮通交大紀』1725, 田中健夫・田代和生校訂, 名著出版, 1978)。その後は元禄年間まで、「竹嶋」が外交の場に出ることは無かったようです。朝鮮としても「隠岐海上有竹嶋」では、「竹嶋」が鬱陵島であることに気付かなかったでしょう。
隠岐国を預地として治めていた松江藩も、「竹嶋」を「隠岐國」とするには消極的でした。「正保国絵図」の『出雲国絵図付隠岐国』には「竹嶋」は描かれていません(No.10197)。二十数年後、竹島・松島で以て日本の西北地を限ろうとした、羅山の孫弟子齋藤勘介の意図は、松江藩によって拒まれました。しかし彼は、「漢字という巨大な迷宮」(No.15135)をホンノ少シ利用して、「州」と書き(講談社『大字典』の一説)、「竹島・松島・隠岐」の三島を「隠州」に含めました(Nos.9572, 15178)。
これは メッセージ 15202 (take_8591 さん)への返信です.
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