于山島は石島となった
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2006/09/15 22:31 投稿番号: [14897 / 18519]
1899年9月23日付『皇城新聞』の記事「其(鬱陵島)附屬の小六島中で最著は于山島竹島」から、この于山島は鬱陵島或いは竹島(Chuk-do)ではあり得ないので、私は于山島を現在の竹島(独島)と規定しました(No.14726)。
これに対しahirutousagi2さんは、李奎遠の調査が竹島(独島)を発見できなかったことから、「竹島(独島)を見失っていたとすべきでしょう」と述べられました(No.14731)。
李奎遠は鬱陵島の高所から眺めて竹島(独島)を発見できず、鬱陵島を于山島として報告しました(No.3138)。ahirutousagi2さんが述べられたように、1882年当時、朝鮮政府は確かに竹島(独島)を見失っていました。これは500年に亘る空島政策の結果でしょう。一方日本では明治10(1877)年、当時の外務省交信局長田邊太一は「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」(北澤正誠『竹島考證』1881, 復刻エムティ出版, 1996)と認識していました。
李奎遠の調査は1881年5月捜討官が鬱陵島で日本人の伐木に気付き行われました。李奎遠らは1882年4月30日から5月10日まで鬱陵島に滞在し、朝鮮人140人に対し日本人が78人も住むこと、また「大日本国松島槻谷 明治二年二月十三日 岩崎忠照 建立」と書かれた標柱のあることを知りました。そこで朝鮮政府は、日本政府に抗議するとともに、1403年からの空島政策を廃しました。
ahirutousagi2さんはNo.2790で「住民が独島の存在を知っていればそれを官吏に知らせていたはずです」と書かれました。しかし、当時の鬱陵島住民は不法滞在者です。たとえ独島の存在を知っていても、それを正直に官吏に知らせないでしょう。ただし、李奎遠は于山島なる島の存在は聞きました。
李奎遠の報告を受け、朝鮮政府は1883年3月金玉均を「東南諸島開拓使兼管捕鯨事」に任命し開拓を積極的に進めました。「ワカメやアワビ、またはアシカをとりにしばしば独島に出漁した」と語った洪在現は、1883年頃の移住者です(No.14668)。その後の鬱陵島の人口増加と産業の振興は著しく、日本人の報告にも「現在、土民ノ人口ハ二千余人ニシテ戸数凡五百農夫ト漁夫相半シ又船舶ヲ製造スル大工等アリ」(高雄謙三「1899年10月3日付復命書」外務省記録, 3532)と記されています。この開拓過程で、朝鮮政府もやっと「于山島は倭の松島であり鬱陵島に属する」という日本の外務省高官と同じ認識に達し、1899年『皇城新聞』は鬱陵島附属島の最著として于山島と竹島を挙げました。
ただし、当時の鬱陵島の最も大きな問題は日本人の進出でした。1883年10月、日本政府は船を出し不法滞在の日本人254人を送還しました。しかしその後も、日本人の侵入は止まずトラブルが頻発したので、1898年7月には島監蠔季周は山陰の境港まで行き、日本の警察に取締を要請し違法行為の告訴をしております。上記の『皇城新聞』にも日本人の流入が夥しく土民を侵凌していると書かれています。
蠔季周は大韓帝国政府に鬱陵島の窮状を訴えたので、政府は「内部視察官」として禹用鼎を派遣しました。彼は1900年5月31日鬱陵島に着き6月5日まで現地を調査し、鬱陵島は日本人の進出により憂慮すべき状態にあると報告し、『勅令41号』はその結果として発布されました。
禹用鼎は特に、1714年江原道御史趙錫命が「鬱陵之東島嶼相望接于倭境」と報告した(宋炳基「朝鮮後期の鬱陵島経営」内藤浩之訳『北東アジア文化研究』10, 1999)、鬱陵島東方の日本と接する島に関心を寄せました。この島は于山島と呼ばれてきました。しかし于山島は、1882年李奎遠が鬱陵島を于山島としたように、鬱陵島或いは竹島を表すこともあります。そこで禹用鼎は于山島を鬱陵島民が呼んでいた石島という名に改めました。石島は、日本人も「生木なき岩嶋」と記しているように(大西教保『隠岐古記集』1823)、余りにも即物的ですが、この島の名に相応しいでしょう。
禹用鼎の報告を受けて1900年10月25日に公布された『勅令41号』は、管轄区域として竹島とともに、特に国境の石島を挙げました。これは、実を結ばなかったとはいえ、強い危機意識の表れでしょう。この時期、鬱陵島と殆ど接する緑豊かな観音島や周辺の生木なき岩礁を、わざわざ石島として、管轄区域に含める必然性は無いでしょう。従って、『皇城新聞』『勅令41号』から于山島=石島=獨島が最も理に適う、と愚考します。
これに対しahirutousagi2さんは、李奎遠の調査が竹島(独島)を発見できなかったことから、「竹島(独島)を見失っていたとすべきでしょう」と述べられました(No.14731)。
李奎遠は鬱陵島の高所から眺めて竹島(独島)を発見できず、鬱陵島を于山島として報告しました(No.3138)。ahirutousagi2さんが述べられたように、1882年当時、朝鮮政府は確かに竹島(独島)を見失っていました。これは500年に亘る空島政策の結果でしょう。一方日本では明治10(1877)年、当時の外務省交信局長田邊太一は「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」(北澤正誠『竹島考證』1881, 復刻エムティ出版, 1996)と認識していました。
李奎遠の調査は1881年5月捜討官が鬱陵島で日本人の伐木に気付き行われました。李奎遠らは1882年4月30日から5月10日まで鬱陵島に滞在し、朝鮮人140人に対し日本人が78人も住むこと、また「大日本国松島槻谷 明治二年二月十三日 岩崎忠照 建立」と書かれた標柱のあることを知りました。そこで朝鮮政府は、日本政府に抗議するとともに、1403年からの空島政策を廃しました。
ahirutousagi2さんはNo.2790で「住民が独島の存在を知っていればそれを官吏に知らせていたはずです」と書かれました。しかし、当時の鬱陵島住民は不法滞在者です。たとえ独島の存在を知っていても、それを正直に官吏に知らせないでしょう。ただし、李奎遠は于山島なる島の存在は聞きました。
李奎遠の報告を受け、朝鮮政府は1883年3月金玉均を「東南諸島開拓使兼管捕鯨事」に任命し開拓を積極的に進めました。「ワカメやアワビ、またはアシカをとりにしばしば独島に出漁した」と語った洪在現は、1883年頃の移住者です(No.14668)。その後の鬱陵島の人口増加と産業の振興は著しく、日本人の報告にも「現在、土民ノ人口ハ二千余人ニシテ戸数凡五百農夫ト漁夫相半シ又船舶ヲ製造スル大工等アリ」(高雄謙三「1899年10月3日付復命書」外務省記録, 3532)と記されています。この開拓過程で、朝鮮政府もやっと「于山島は倭の松島であり鬱陵島に属する」という日本の外務省高官と同じ認識に達し、1899年『皇城新聞』は鬱陵島附属島の最著として于山島と竹島を挙げました。
ただし、当時の鬱陵島の最も大きな問題は日本人の進出でした。1883年10月、日本政府は船を出し不法滞在の日本人254人を送還しました。しかしその後も、日本人の侵入は止まずトラブルが頻発したので、1898年7月には島監蠔季周は山陰の境港まで行き、日本の警察に取締を要請し違法行為の告訴をしております。上記の『皇城新聞』にも日本人の流入が夥しく土民を侵凌していると書かれています。
蠔季周は大韓帝国政府に鬱陵島の窮状を訴えたので、政府は「内部視察官」として禹用鼎を派遣しました。彼は1900年5月31日鬱陵島に着き6月5日まで現地を調査し、鬱陵島は日本人の進出により憂慮すべき状態にあると報告し、『勅令41号』はその結果として発布されました。
禹用鼎は特に、1714年江原道御史趙錫命が「鬱陵之東島嶼相望接于倭境」と報告した(宋炳基「朝鮮後期の鬱陵島経営」内藤浩之訳『北東アジア文化研究』10, 1999)、鬱陵島東方の日本と接する島に関心を寄せました。この島は于山島と呼ばれてきました。しかし于山島は、1882年李奎遠が鬱陵島を于山島としたように、鬱陵島或いは竹島を表すこともあります。そこで禹用鼎は于山島を鬱陵島民が呼んでいた石島という名に改めました。石島は、日本人も「生木なき岩嶋」と記しているように(大西教保『隠岐古記集』1823)、余りにも即物的ですが、この島の名に相応しいでしょう。
禹用鼎の報告を受けて1900年10月25日に公布された『勅令41号』は、管轄区域として竹島とともに、特に国境の石島を挙げました。これは、実を結ばなかったとはいえ、強い危機意識の表れでしょう。この時期、鬱陵島と殆ど接する緑豊かな観音島や周辺の生木なき岩礁を、わざわざ石島として、管轄区域に含める必然性は無いでしょう。従って、『皇城新聞』『勅令41号』から于山島=石島=獨島が最も理に適う、と愚考します。
これは メッセージ 14896 (ararenotomo さん)への返信です.
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