Re: >Re: 石島は観音島(追加)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/11 19:19 投稿番号: [14732 / 18519]
>視認できる島を付属とするのは自然でしょう。付属の小六島中で、竹島(独島)は最も遠くに離れて在り、竹島(竹嶼)は最も大きいですから、「最著」というのは妥当と思います。
視認が簡単ではない以上、鬱陵島の付属でもっとも顕著なのは、竹嶼と観音島というのが自然な理解でしょう。
これほど離れた存在に対して何の言及もなく「最著」というのはとても妥当とは思えません。「著」は人の目について目立つ存在を指しているのではないでしょうか。最も遠くに離れているから「最著」は妥当という理解はどうかと思います。
>竹島(独島)は鬱陵島から最も遠く離れているので、「最著」というのも一つの言及と思いますが、付属の小六島中に、竹島(独島)が含まれるのは当然であり、何ら特殊ではなかったから、ことさら言及しなかったのではないでしょうか。
付属の小六島中に竹島(独島)が含まれるのが「当然」であるとの理解がどんな根拠による推測なのか分かりませんが、もしも付属が当然であれば、その前に調査を行った李奎遠はどうして竹島(独島)を見つけられなかったのでしょうか。
>『大韓全図』の于山島が鬱陵島からどれほど離れているかを計算してみました。(中略)『大韓全図』の于山島は鬱陵島から28km離れて描かれていることになります。
大切なのは于山島が鬱陵島および他の小島とあわせてどのように画かれているかです。
もしも計算なさるのであれば、于山だけでなく鬱陵島付属の小島群がそれぞれ鬱陵島から何キロ離れているかを計算するべきです。大韓全図あたりで「于山」のほかの小島が鬱陵島から何キロ離れているか、計算してご覧になるといかがでしょうか。ご指摘の計算が無意味であることがお分かりになるかと思いますが。
>この皇城新聞の記事は「于山島は竹島(独島)であり鬱陵島附屬の島である」という当時の朝鮮社会の常識を明示したものと思います。
于山島が鬱陵島付属の島であるという認識は確かにあったと思いますが、「于山島が竹島(独島)であり鬱陵島付属の島である」というのは当時の朝鮮社会の常識であったとはとても思えません。
書物に「于山は即ち倭の所謂松島なり」という記述が存在する。したがって朝鮮では一般に竹島(独島)が鬱陵島とあわせて領土と考えられてきたとすることは、どこか話が飛んでいるように感じます。
なぜなら、朝鮮においては近代にいたるまで、全く于山島・竹島(独島)の存在を理解していなかったからです。朝鮮にあったのは、于山・鬱陵は朝鮮の地である。その認識だけです。
なるほど「于山は日本のいう松島である」という記述は私が考えるに竹島(独島)を韓国領であるとするほぼ「唯一の」根拠かと思います。しかし一方で、朝鮮は竹島(独島)を全く把握していなかったのです。
ちなみに、李奎遠の調査では松竹・于山島を鬱陵島の近隣の小島にあてており、そこに竹島(独島)の知見はありません。
>それ故、1900年5月大韓帝国政府から派遣されて鬱陵島を調査した禹用鼎は、このような曖昧な「于山島」を、島自体の形状から鬱陵漁民の共通認識になっていた「石島」という名に変え、勅令41号はそれを採用しました。
私には「島自体の形状から鬱陵漁民の共通認識になっていた石島」と断言なさることが理解できないのです。石島の名が「共通認識」になっていたかどうか、どうして分かるのですか。
韓国の研究者でさえ方言を持ち出してかろうじて苦しい理由付けを行っているような状況ですが、なぜ「共通認識」があったと決め付けるのでしょう。
貴殿の理解は、竹島(独島)=石島との理解が、アプリオリに前提として設定されているもので、周辺のあらゆる資料をそれによって解釈しようとの姿勢があるとしか思えません。
なお、皇城新聞の記事についてはお言葉のとおり、ラボルテとは関係がないものと思われます。それについては3680, 3702にてすでに言及があります。
一方、禹用鼎の調査については禹用鼎の資料が原文「紛失」とされており、要約だけが公表されているようです。この要約は私は資料的には何ら意味をなさないものと考えます。恣意的ですらある可能性があることでしょう。
何か都合の悪いことでも書いてあるのかと私は想像しています。
視認が簡単ではない以上、鬱陵島の付属でもっとも顕著なのは、竹嶼と観音島というのが自然な理解でしょう。
これほど離れた存在に対して何の言及もなく「最著」というのはとても妥当とは思えません。「著」は人の目について目立つ存在を指しているのではないでしょうか。最も遠くに離れているから「最著」は妥当という理解はどうかと思います。
>竹島(独島)は鬱陵島から最も遠く離れているので、「最著」というのも一つの言及と思いますが、付属の小六島中に、竹島(独島)が含まれるのは当然であり、何ら特殊ではなかったから、ことさら言及しなかったのではないでしょうか。
付属の小六島中に竹島(独島)が含まれるのが「当然」であるとの理解がどんな根拠による推測なのか分かりませんが、もしも付属が当然であれば、その前に調査を行った李奎遠はどうして竹島(独島)を見つけられなかったのでしょうか。
>『大韓全図』の于山島が鬱陵島からどれほど離れているかを計算してみました。(中略)『大韓全図』の于山島は鬱陵島から28km離れて描かれていることになります。
大切なのは于山島が鬱陵島および他の小島とあわせてどのように画かれているかです。
もしも計算なさるのであれば、于山だけでなく鬱陵島付属の小島群がそれぞれ鬱陵島から何キロ離れているかを計算するべきです。大韓全図あたりで「于山」のほかの小島が鬱陵島から何キロ離れているか、計算してご覧になるといかがでしょうか。ご指摘の計算が無意味であることがお分かりになるかと思いますが。
>この皇城新聞の記事は「于山島は竹島(独島)であり鬱陵島附屬の島である」という当時の朝鮮社会の常識を明示したものと思います。
于山島が鬱陵島付属の島であるという認識は確かにあったと思いますが、「于山島が竹島(独島)であり鬱陵島付属の島である」というのは当時の朝鮮社会の常識であったとはとても思えません。
書物に「于山は即ち倭の所謂松島なり」という記述が存在する。したがって朝鮮では一般に竹島(独島)が鬱陵島とあわせて領土と考えられてきたとすることは、どこか話が飛んでいるように感じます。
なぜなら、朝鮮においては近代にいたるまで、全く于山島・竹島(独島)の存在を理解していなかったからです。朝鮮にあったのは、于山・鬱陵は朝鮮の地である。その認識だけです。
なるほど「于山は日本のいう松島である」という記述は私が考えるに竹島(独島)を韓国領であるとするほぼ「唯一の」根拠かと思います。しかし一方で、朝鮮は竹島(独島)を全く把握していなかったのです。
ちなみに、李奎遠の調査では松竹・于山島を鬱陵島の近隣の小島にあてており、そこに竹島(独島)の知見はありません。
>それ故、1900年5月大韓帝国政府から派遣されて鬱陵島を調査した禹用鼎は、このような曖昧な「于山島」を、島自体の形状から鬱陵漁民の共通認識になっていた「石島」という名に変え、勅令41号はそれを採用しました。
私には「島自体の形状から鬱陵漁民の共通認識になっていた石島」と断言なさることが理解できないのです。石島の名が「共通認識」になっていたかどうか、どうして分かるのですか。
韓国の研究者でさえ方言を持ち出してかろうじて苦しい理由付けを行っているような状況ですが、なぜ「共通認識」があったと決め付けるのでしょう。
貴殿の理解は、竹島(独島)=石島との理解が、アプリオリに前提として設定されているもので、周辺のあらゆる資料をそれによって解釈しようとの姿勢があるとしか思えません。
なお、皇城新聞の記事についてはお言葉のとおり、ラボルテとは関係がないものと思われます。それについては3680, 3702にてすでに言及があります。
一方、禹用鼎の調査については禹用鼎の資料が原文「紛失」とされており、要約だけが公表されているようです。この要約は私は資料的には何ら意味をなさないものと考えます。恣意的ですらある可能性があることでしょう。
何か都合の悪いことでも書いてあるのかと私は想像しています。
これは メッセージ 14727 (ararenotomo さん)への返信です.
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