Re: 『公文録』の大谷家「図面」
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/02 14:23 投稿番号: [14693 / 18519]
半月城です。
puracyakaさん、Re:14677
>1877年の太政官判断が仮に今の竹島だとしても
puracyakaさんは、公文録付属の下記地図に記された「松島」を現在の地名でどこだとお考えですか? 奥歯に物を挟まず、ズバリお答えください。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf
なお、この「磯竹島略圖」は解像度の高いものに置きかえました。その際、あいまいであった磯竹島と朝鮮との間に書かれた説明文を下記のように書換えました。
「磯竹島ヨリ朝鮮國ヲ遠望スル酉戌ニ當リ海上凡五十里許」
磯竹島、すなわち竹島(鬱陵島)と朝鮮との距離は「およそ50里」とされましたが、これは 200km になります。大谷家が活躍した江戸時代には「浬(カイリ)」の単位は使用されていなかったので、50里は 200km になります。
この距離は公文録所載の「旧政府評議の主旨」に書かれた距離よりやや遠くなっています。そこには下記のように40里(160km) と記されました。
「島(竹島)への道のりをたずねると、伯耆から160里ほど、朝鮮へは40里ほどあるので、したがって朝鮮国の蔚陵島(鬱陵島)であるようだ(注1)」
ついでに記すなら、安龍福が隠岐島で代官に供述した記録では「竹島と朝鮮の間 三十里」120km とあり、実際の距離140kmに近くなっています(注2)。そのかわり、かれは竹島と松島との間の距離を50里、実際の2倍くらいに見ました。
いずれにしても、江戸時代の海上の距離感は航路の所要時間のみから割りだされたようなので、誤差は大きくて当然なのはいうまでもありません。
(注1)半月城通信「明治政府、竹島=独島の版図外確認」
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.846
(注2)半月城通信<新発見史料「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」>
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.845
puracyakaさん、Re:14677
>1877年の太政官判断が仮に今の竹島だとしても
puracyakaさんは、公文録付属の下記地図に記された「松島」を現在の地名でどこだとお考えですか? 奥歯に物を挟まず、ズバリお答えください。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf
なお、この「磯竹島略圖」は解像度の高いものに置きかえました。その際、あいまいであった磯竹島と朝鮮との間に書かれた説明文を下記のように書換えました。
「磯竹島ヨリ朝鮮國ヲ遠望スル酉戌ニ當リ海上凡五十里許」
磯竹島、すなわち竹島(鬱陵島)と朝鮮との距離は「およそ50里」とされましたが、これは 200km になります。大谷家が活躍した江戸時代には「浬(カイリ)」の単位は使用されていなかったので、50里は 200km になります。
この距離は公文録所載の「旧政府評議の主旨」に書かれた距離よりやや遠くなっています。そこには下記のように40里(160km) と記されました。
「島(竹島)への道のりをたずねると、伯耆から160里ほど、朝鮮へは40里ほどあるので、したがって朝鮮国の蔚陵島(鬱陵島)であるようだ(注1)」
ついでに記すなら、安龍福が隠岐島で代官に供述した記録では「竹島と朝鮮の間 三十里」120km とあり、実際の距離140kmに近くなっています(注2)。そのかわり、かれは竹島と松島との間の距離を50里、実際の2倍くらいに見ました。
いずれにしても、江戸時代の海上の距離感は航路の所要時間のみから割りだされたようなので、誤差は大きくて当然なのはいうまでもありません。
(注1)半月城通信「明治政府、竹島=独島の版図外確認」
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.846
(注2)半月城通信<新発見史料「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」>
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.845
これは メッセージ 14677 (puracyaka さん)への返信です.
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