Re: 『公文録』の大谷家「図面」
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/26 23:33 投稿番号: [14681 / 18519]
どうも有難うございます。個人的には、太政官は「北緯〜度、東経〜度の松島は」としているわけでもなく、また正確な地理認識がこの時期に伴っていなかった以上、島根県の資料そのものの緻密さに拘わらず、基本的には太政官の判断はその前後の政府の二島の理解が前提となるべきであり、そうであるならばリアンクール岩=松島、あるいはその位置にある島=松島と判断しての判断とは考えにくいし、また考えるべきでもないと思っています。
仮に、太政官はリアンクール岩を松島と判断して放棄した。そして天城の調査は単なる間違いで、その後の太政大臣三条実美の鬱陵島渡航禁止令などもその間違いに乗じたもの、という考え方をするとしても、それがすぐにリアンクール岩=朝鮮領とは結びつかないのは仰るとおりかと思います。
太政官への伺い文書などで元禄の朝鮮側との交渉が触れられていますが、そこで提示されているのは「本邦関係無し」ということであって、朝鮮領であると規定しているのではないということも、あるいは言えるのかもしれません。
結局は、1905年までは明確な領土認識が日本にもなかったとすべきでしょうから(だからこそ領土編入した)、「本邦関係無し」は何ら矛盾したものでもないでしょう。
これは メッセージ 14677 (puracyaka さん)への返信です.
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