ちょっと考えてみました
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/25 22:37 投稿番号: [14667 / 18519]
以前にすでに言明しているように、島根県の資料は現在の鬱陵島と竹島を反映したものであり、太政官もまたそこに記された竹島と松島を版図外としたのだと私は認識しています。
ただし、前後の資料的な脈絡から太政官の地理的な認識はアルゴノート・ダジュレーで考えられる(あるいは考えるべき)との立場です。
私は資料にある隠岐から両島80里40里のそれぞれの距離はかなり不正確なものであると考えますが、一方で、先に記したように海里での計算においてはこの資料がほぼ現実に近いものという点はあらためて考慮すべきかとも思われます。
そこで、島根県の資料が現在の鬱陵島・竹島をそのまま正確に竹島・松島として反映しており、距離的にも現実と一致していると考え、また太政官がそれについて「版図外」としていると考えてみます。
とすれば以下のような理解が可能です。
1.各省の地図如何にかかわらず、あくまで太政官はリアンクール岩を松島として認識し放棄した。
2.各省の地図如何にかかわらず、島根の資料をもとに、当該距離に存在するであろう竹島・松島の存在を版図外とした。
どちらをとるにせよ、問題点として、ではどうして天城の調査で鬱陵島が松島になり、竹嶼が竹島になったのかの整合性はとれません。
こうした理解では、天城の調査は、要するに、日本側がリアンクールを松島にすることが都合が悪くなったのでこじつけであとから鬱陵島を松島にすることにした、または勘違いということにでもしなければなりません。
上記の1・2いずれにしても、こうした不合理な調査結果は明治政府に許されるものではないはずです。三条実美による渡航禁止令の記述も矛盾してしまいます。どうも不自然です。
とすると、考えられるのは、太政官の判断はリアンクール岩の位置まではもとより含むべきものとして考えられていなかったということです。
島根県の資料にある竹島・松島を版図外としつつも、そこで意識されたのは位置的には現在の鬱陵島の位置までが版図外であるとの認識です。
そう考えれば、陸軍・文部省の地図はもちろん、天城の調査、三条の禁止令、内務省地理局の地図、すべてつながってくるのです。また、この時期の明治政府の正式の立場は、この天城の調査に規定される、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島に収斂されると考えるべきと思われます。
地理的理解が不明瞭であった当時において、島根県の資料がどれほど現在の鬱陵島と竹島を明確に、かつ正確に反映していようと、極端な話、それは問題ではないのです。
太政官がそれに対して版図外としたにせよ、太政官が版図外としたのは結局は竹島・松島という島(日本海にある二島)の存在であり、それはリアンクール岩の位置で考えられたとは整合的には考えにくいものなのです。
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」も、私の理解とまったく合致するものなのです(この地図では全国図ではアルゴノート・ダジュレーの位置に竹島・松島が描かれていますが、島根県の項目に竹島・松島は含まれていません。太政官判断が影響しているのでしょう)。
ただし、前後の資料的な脈絡から太政官の地理的な認識はアルゴノート・ダジュレーで考えられる(あるいは考えるべき)との立場です。
私は資料にある隠岐から両島80里40里のそれぞれの距離はかなり不正確なものであると考えますが、一方で、先に記したように海里での計算においてはこの資料がほぼ現実に近いものという点はあらためて考慮すべきかとも思われます。
そこで、島根県の資料が現在の鬱陵島・竹島をそのまま正確に竹島・松島として反映しており、距離的にも現実と一致していると考え、また太政官がそれについて「版図外」としていると考えてみます。
とすれば以下のような理解が可能です。
1.各省の地図如何にかかわらず、あくまで太政官はリアンクール岩を松島として認識し放棄した。
2.各省の地図如何にかかわらず、島根の資料をもとに、当該距離に存在するであろう竹島・松島の存在を版図外とした。
どちらをとるにせよ、問題点として、ではどうして天城の調査で鬱陵島が松島になり、竹嶼が竹島になったのかの整合性はとれません。
こうした理解では、天城の調査は、要するに、日本側がリアンクールを松島にすることが都合が悪くなったのでこじつけであとから鬱陵島を松島にすることにした、または勘違いということにでもしなければなりません。
上記の1・2いずれにしても、こうした不合理な調査結果は明治政府に許されるものではないはずです。三条実美による渡航禁止令の記述も矛盾してしまいます。どうも不自然です。
とすると、考えられるのは、太政官の判断はリアンクール岩の位置まではもとより含むべきものとして考えられていなかったということです。
島根県の資料にある竹島・松島を版図外としつつも、そこで意識されたのは位置的には現在の鬱陵島の位置までが版図外であるとの認識です。
そう考えれば、陸軍・文部省の地図はもちろん、天城の調査、三条の禁止令、内務省地理局の地図、すべてつながってくるのです。また、この時期の明治政府の正式の立場は、この天城の調査に規定される、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島に収斂されると考えるべきと思われます。
地理的理解が不明瞭であった当時において、島根県の資料がどれほど現在の鬱陵島と竹島を明確に、かつ正確に反映していようと、極端な話、それは問題ではないのです。
太政官がそれに対して版図外としたにせよ、太政官が版図外としたのは結局は竹島・松島という島(日本海にある二島)の存在であり、それはリアンクール岩の位置で考えられたとは整合的には考えにくいものなのです。
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」も、私の理解とまったく合致するものなのです(この地図では全国図ではアルゴノート・ダジュレーの位置に竹島・松島が描かれていますが、島根県の項目に竹島・松島は含まれていません。太政官判断が影響しているのでしょう)。
これは メッセージ 14666 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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