Re: 『公文録』の大谷家「図面」
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/25 16:28 投稿番号: [14666 / 18519]
一応、言及したものについて年代順に並べます。ほかにも援用できそうな地図などはありそうですが。
1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」
アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.html1875年
陸軍参謀局「朝鮮全図」
鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島が描かれる(アルゴノート・ダジュレーに比定可能)
1877年
文部省「日本全図」
鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島(アルゴノート・ダジュレーに比定可能)
1877年
太政官判断。
「公文録」では磯竹島から朝鮮まで95里、松島から磯竹島まで40里、隠岐から松島まで80里と記録。実際は、それぞれ、130km, 87km, 157km程度(海里ではそれぞれ70浬、47浬、85浬)。
1880年
軍艦天城の調査で竹嶼が竹島、鬱陵島が松島と確定。
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」
アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島
1883年
太政大臣三条実美による鬱陵島渡航禁止令に「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」との記録あり。
以上のような経緯から、太政官がリアンクール岩を松島と考え、それを放棄したとの可能性はほとんどないと判断しました。
かろうじて、仮に太政官が陸軍・文部省・内務省などの理解とは別に島根県提出の資料のみを通じて島を把握し、しかもその距離的な理解が「海里」であったとすればそれなりにありうることかもしれませんが、その場合、1880年以降の調査、内務省地理局の理解、三条実美の禁止令の記述と整合性を取りづらくなります。
いずれにしても、この時期の竹島・松島理解は、結局は1880年の天城の調査に収斂するものと思われます。
これは メッセージ 14665 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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