「竹島一件」後の于山島認識1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/09 13:26 投稿番号: [1398 / 18519]
半月城です。
私が安龍福の個人的な于山島=松島という認識を書いたのは、ある人の「東国文献備考」改竄発言を検証する意味あいもありました。それを具体的にみる前に再度確認すると「東国文献備考」(1770)に于山島と松島の関係がつぎのように記されました。
「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である」
「東国文献備考」は官撰史料であるだけに、于山島=松島という認識は当時の朝鮮政府の見解を示すものでした。そのときの松島は現在の竹島=独島をさすだけに、下條氏は于山島=松島の記述にいたく不満なようで、そのためか改竄発言がこうなされました。
<申景濬は、安龍福の供述で成立した「松島は即ち于山島なり」説に従い、あたかも『輿地志』の説のように(「東国文献備考」を)改竄したのである(注1)>
「改竄」とはただならぬ言葉遣いです。そもそも「輿地志」(1656)の実物が現存しない以上、改竄したかどうかは知るすべがありません。すなわち改竄の証明は不可能です。それにもかかわらず、改竄したと言い切るなんて下條氏は研究者失格といわざるをえません。
ここの会議室でも下條氏の説をすっかり信じ切っている人が多いようですが、『太宗実録』の誤読といい、『世宗実録』地理志の曲解といい、下條氏の発言にはあきれるばかりです。このような人の存在が竹島=独島問題をまぎれさせているのではないでしょうか。
「東国文献備考」以降、「輿地志」の于山島=松島という認識は朝鮮の官撰史料ですっかり定着しました。これ以降、鬱陵島=于山島という一島説は消え去りました。それにともない于山島の地図も変化しましたが、それを宋氏はこう記しました。
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鬱陵島に対する地理的知識の拡大は地図作成にも影響を与え、于山島の位置が明確に浮き彫りにされたことも注目にあたいする。従来の地図、たとえば『新増東國輿地勝覧』に載せられた「八道總圖」や「江原道圖」は于山島を内陸側に、鬱陵島をその東側におき、ほとんど同じ大きさとし接近させて描いている。
しかるに鄭尚驥(1679-1752)の「東國地圖」になると、鬱陵島が内陸側に、于山島がその東側に移されただけでなく、距離や大きさが正確に表記されたのを見ることができる(注2)。
これは1694年(粛宗22)に三陟僉使・張漢相が鬱陵島東側300余里(120km)離れたところにある小さな島があるのを確認したことや、安龍福たちが于山島を直接踏査した事実とも関連して考えることができる。
以来、朝鮮後期の地図には、たとえその位置が鬱陵島東南側に下がったりとか一定していないが、于山島あるいは子山島が継続して表示されている。これは鄭尚驥の「東國地圖」に影響を受けたのである。その一方、鬱陵島の他にある島が于山島という認識が継続しているのを意味しているのである(注3)。
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「竹島一件」のおかげで朝鮮では于山島に関する知識が次第に蓄積されてきたようでした。それに「愚民」安龍福の活動が一役かっていることはいうまでもありません。ところで安の「直接踏査」ですが、くだんの下條氏は、安龍福がみたのは于山島でなく隠岐島だったなどと、ここのショービニストが飛びつきそうなことを記しました(注1)。
しかし、ある「竹島日本領派」の研究者は、安龍福と于山島の関係をもっと冷静に分析しました。塚本氏はこう述べました。
(つづく)
私が安龍福の個人的な于山島=松島という認識を書いたのは、ある人の「東国文献備考」改竄発言を検証する意味あいもありました。それを具体的にみる前に再度確認すると「東国文献備考」(1770)に于山島と松島の関係がつぎのように記されました。
「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である」
「東国文献備考」は官撰史料であるだけに、于山島=松島という認識は当時の朝鮮政府の見解を示すものでした。そのときの松島は現在の竹島=独島をさすだけに、下條氏は于山島=松島の記述にいたく不満なようで、そのためか改竄発言がこうなされました。
<申景濬は、安龍福の供述で成立した「松島は即ち于山島なり」説に従い、あたかも『輿地志』の説のように(「東国文献備考」を)改竄したのである(注1)>
「改竄」とはただならぬ言葉遣いです。そもそも「輿地志」(1656)の実物が現存しない以上、改竄したかどうかは知るすべがありません。すなわち改竄の証明は不可能です。それにもかかわらず、改竄したと言い切るなんて下條氏は研究者失格といわざるをえません。
ここの会議室でも下條氏の説をすっかり信じ切っている人が多いようですが、『太宗実録』の誤読といい、『世宗実録』地理志の曲解といい、下條氏の発言にはあきれるばかりです。このような人の存在が竹島=独島問題をまぎれさせているのではないでしょうか。
「東国文献備考」以降、「輿地志」の于山島=松島という認識は朝鮮の官撰史料ですっかり定着しました。これ以降、鬱陵島=于山島という一島説は消え去りました。それにともない于山島の地図も変化しましたが、それを宋氏はこう記しました。
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鬱陵島に対する地理的知識の拡大は地図作成にも影響を与え、于山島の位置が明確に浮き彫りにされたことも注目にあたいする。従来の地図、たとえば『新増東國輿地勝覧』に載せられた「八道總圖」や「江原道圖」は于山島を内陸側に、鬱陵島をその東側におき、ほとんど同じ大きさとし接近させて描いている。
しかるに鄭尚驥(1679-1752)の「東國地圖」になると、鬱陵島が内陸側に、于山島がその東側に移されただけでなく、距離や大きさが正確に表記されたのを見ることができる(注2)。
これは1694年(粛宗22)に三陟僉使・張漢相が鬱陵島東側300余里(120km)離れたところにある小さな島があるのを確認したことや、安龍福たちが于山島を直接踏査した事実とも関連して考えることができる。
以来、朝鮮後期の地図には、たとえその位置が鬱陵島東南側に下がったりとか一定していないが、于山島あるいは子山島が継続して表示されている。これは鄭尚驥の「東國地圖」に影響を受けたのである。その一方、鬱陵島の他にある島が于山島という認識が継続しているのを意味しているのである(注3)。
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「竹島一件」のおかげで朝鮮では于山島に関する知識が次第に蓄積されてきたようでした。それに「愚民」安龍福の活動が一役かっていることはいうまでもありません。ところで安の「直接踏査」ですが、くだんの下條氏は、安龍福がみたのは于山島でなく隠岐島だったなどと、ここのショービニストが飛びつきそうなことを記しました(注1)。
しかし、ある「竹島日本領派」の研究者は、安龍福と于山島の関係をもっと冷静に分析しました。塚本氏はこう述べました。
(つづく)
これは メッセージ 1338 (hakkoda1297 さん)への返信です.
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