「島根県竹島報告書」に異議あり5
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/04/09 20:48 投稿番号: [12714 / 18519]
こうして中井の「りやんこ島領土編入並二貸下願」は、内務・外務・農商務の三大臣に宛て提出されることになった。なお「占領ノ事実」とされたのは、中井がリヤンコ島に小屋を建てて漁猟をしたことをいっている。報告書は「中井の漁業会社が同島に小屋を構えていること」と記しているが、閣議決定文では「明治三十六年以来中井養三郎ナル者該島二移住シ漁業二従事セルコトハ関係書類二依り明ナル所」となっている。
いうところの関係書類の一つである申請書では、「明治三十六年ニ至り断然意ヲ決シテ資本ヲ投シ漁舎ヲ構エ人夫ヲ移シ猟具ヲ備へテ先ツ海驢猟ニ着手致シ候」とあり、また附属説明書のなかでは「三十六年五月余ハ爰ニ海驢猟ヲ企テ人夫ヲ移シ漁舎ヲ構エタリ」と記し、住居ではなく「漁舎」を構えたといっている。そしてこの漁合の利用状況については、一九〇四年(明治三十七)十一月に軍艦対馬が、「此島ヲ審査セシ際ハ、東島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシト云フ」「此島ハ島上ニ小屋ヲ構へ毎回約十日間仮居ス」との報告がある。
したがって、閣議決定書にある「該島ニ移住シ」というものは、漁舎を利用した年間十日ばかりの仮居にすぎないのであるから、これを「該島ニ移住」したとはいえないし、「占領の事実」とみることができるかどうかは疑問であることは明らかである。なお、小屋を構えたのは中井個人であり、報告書でいっている中井の漁業会社ではない。中井が会社をつくったのは、編入後の一九〇五年(明治三十八)六月であり、免許を取得した四名が共同して竹島漁猟合資会社を設立、中井はその代表役員となる。
さらに、領土編入にあたっての問題として、諸外国への通告をしなかったなどの公示方法がある。
日本政府は、一九〇五年(明治三十八)一月二十八日の閣議で領土編入を決定した後、二月二十二日に島根県に指示して管内に公示させた。島根県告示第40号である。また地元の『山陰新聞』は、二月二十四日付でそのことを報じている。
しかし日本政府は、この決定を官報に記載して広く内外に公示する措置はとらなかった。このことについて外務省のホームページは、「外国政府に通告することは国際法上の義務ではない」とわざわざコメントしているが、政府部内にすら韓国領ではないかという疑念があったものを、韓国政府に照会することも、通告することさえしなかったことを、「国際法の義務ではない」といってすませることができるだろうか。
当時日本は、韓国の首都漢城を軍事的に掌握しており、仮に通告したとしても、それに韓国側が異議を申し立てることができるような状況ではなく、韓国政府のことなど頭から無視していたからのことといってよい。
このため韓国側が、日本によるリヤンコ島の領土編入について知ったのは、一九〇六年(明治三十九) 三月になってからで、それも偶然の機会からである。それは、三月二十八日に竹島を視察した帰途、風波を避けて鬱陸島に寄港した島根県の神西由太郎第三部長一行が、郡守沈興澤を訪問した時に、リヤンコ島の領土編入を告げたことからである。それを聞いた郡守は、日本の官人一行が来庁して「本郡所属の独島」が日本の領地になったと聞かされて驚いていると、江原道観察使に宛て翌日すぐに報告している。さらに江原道からの報告書にもとづいて中央政府の首相である議政府参政大臣の指令もまた、独島が日本領土になったということは全く根拠のないことと記している。このことは、韓国ではリヤンコ島を欝島郡に属させて独島と公称していることを、中央政府も地方の道庁、郡庁でも明確に認識していたことを明らかにしている。
以上のことなどから、リヤンコ島の日本領土編入については、「暴力及び強欲により略取した」(カイロ宣言)領地にならないかどうかについて、十二分に検討してみる必要がある課題といえる。
(つづく)
いうところの関係書類の一つである申請書では、「明治三十六年ニ至り断然意ヲ決シテ資本ヲ投シ漁舎ヲ構エ人夫ヲ移シ猟具ヲ備へテ先ツ海驢猟ニ着手致シ候」とあり、また附属説明書のなかでは「三十六年五月余ハ爰ニ海驢猟ヲ企テ人夫ヲ移シ漁舎ヲ構エタリ」と記し、住居ではなく「漁舎」を構えたといっている。そしてこの漁合の利用状況については、一九〇四年(明治三十七)十一月に軍艦対馬が、「此島ヲ審査セシ際ハ、東島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシト云フ」「此島ハ島上ニ小屋ヲ構へ毎回約十日間仮居ス」との報告がある。
したがって、閣議決定書にある「該島ニ移住シ」というものは、漁舎を利用した年間十日ばかりの仮居にすぎないのであるから、これを「該島ニ移住」したとはいえないし、「占領の事実」とみることができるかどうかは疑問であることは明らかである。なお、小屋を構えたのは中井個人であり、報告書でいっている中井の漁業会社ではない。中井が会社をつくったのは、編入後の一九〇五年(明治三十八)六月であり、免許を取得した四名が共同して竹島漁猟合資会社を設立、中井はその代表役員となる。
さらに、領土編入にあたっての問題として、諸外国への通告をしなかったなどの公示方法がある。
日本政府は、一九〇五年(明治三十八)一月二十八日の閣議で領土編入を決定した後、二月二十二日に島根県に指示して管内に公示させた。島根県告示第40号である。また地元の『山陰新聞』は、二月二十四日付でそのことを報じている。
しかし日本政府は、この決定を官報に記載して広く内外に公示する措置はとらなかった。このことについて外務省のホームページは、「外国政府に通告することは国際法上の義務ではない」とわざわざコメントしているが、政府部内にすら韓国領ではないかという疑念があったものを、韓国政府に照会することも、通告することさえしなかったことを、「国際法の義務ではない」といってすませることができるだろうか。
当時日本は、韓国の首都漢城を軍事的に掌握しており、仮に通告したとしても、それに韓国側が異議を申し立てることができるような状況ではなく、韓国政府のことなど頭から無視していたからのことといってよい。
このため韓国側が、日本によるリヤンコ島の領土編入について知ったのは、一九〇六年(明治三十九) 三月になってからで、それも偶然の機会からである。それは、三月二十八日に竹島を視察した帰途、風波を避けて鬱陸島に寄港した島根県の神西由太郎第三部長一行が、郡守沈興澤を訪問した時に、リヤンコ島の領土編入を告げたことからである。それを聞いた郡守は、日本の官人一行が来庁して「本郡所属の独島」が日本の領地になったと聞かされて驚いていると、江原道観察使に宛て翌日すぐに報告している。さらに江原道からの報告書にもとづいて中央政府の首相である議政府参政大臣の指令もまた、独島が日本領土になったということは全く根拠のないことと記している。このことは、韓国ではリヤンコ島を欝島郡に属させて独島と公称していることを、中央政府も地方の道庁、郡庁でも明確に認識していたことを明らかにしている。
以上のことなどから、リヤンコ島の日本領土編入については、「暴力及び強欲により略取した」(カイロ宣言)領地にならないかどうかについて、十二分に検討してみる必要がある課題といえる。
(つづく)
これは メッセージ 12713 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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