竹島

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

「島根県竹島報告書」に異議あり3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/04/09 20:22 投稿番号: [12712 / 18519]
  また、幕府に渡海禁止を決断させたのは、対馬藩からの申し出もあったが、決定的であったのは幕府の質問に対する鳥取藩の一六九五年(元禄八)十二月の回答である。
  幕府は「因州伯州え付候竹島は、いつの此より両国附属候哉」と質問している。これでみると幕府は竹島を因伯附属の鳥取藩領とばかり思っていたことがわかる。しかし鳥取藩は「竹島は因幡伯耆附属にては無御座候」と回答した。また、「竹島の外両国へ附属の島有之候哉」という質問に対しては、「竹島松島其外両国え附属の島無御座候事」と答え、松島を竹島の附属としてワンセットでとらえ、それ以外の島はないといっている。
  このことについて報告書では、「同藩に属さないと考えられていたにしても、日本領との認識がなかったとはいえず、まして朝鮮領とする証明にはならない」と記す。前述の鳥取藩の回答書が、竹島松島が因伯附属ではないといった背後に、日本領であるにもかかわらずという鳥取藩の認識を見出すことはできないというべきであろう。ここでは朝鮮領かどうかは問題外のことである。
  竹島とともに松島についても、ワンセットのかたちで併せて因幡伯耆に附属する領地でないと回答したことは、日本のものではないということであり、そのため竹島一件の結果として、朝鮮領であると確認されることになるのであった。

二.近世から近代へ

  外務省のホームページもそうであるが、一年前に島根県がつくった「竹島年表」も、一八七七年(明治十)の太政官で決定された「竹島外一島本邦関係無之」という重大な事項を欠落させていた。このことは、自分に都合の悪いことは隠しているといって、かねてより批判されていた問題であった。しかし今回の報告書では掲載された。
  前述した一六九五年の鳥取藩から幕府への回答、そして一八七七年の太政官決定は、ともに竹島と松島を日本領ではないとしたことから、日本政府そして島根県が主張している竹島の日本固有領土論を否定したことになる。
  それにもかかわらず、一九〇五年(明治三十八)のリヤンコ島日本領土編入は、閣議で「竹島を領有する意思の再確認」を決定したのだという。それならば、いつ、誰が、何をもって、当初の日本領としての確認をしたのかが問われることになる。領有意思の再確認説をとる研究会として明らかにすべき問題である。
  鳥取県出身で隠岐の西郷町に居住していた中井養三郎が、一九〇四年(明治三十七)九月二十九日に「りやんこ島領土編入並二貸下願」の申請書を提出してから、翌一九〇五年一月二十八日に閣議で決定するまでには多くの問題がある。それらについてキチンと説明して県民を納得させるべきだと思うものであるが、報告書はそれをしないで、領土編入の五年前の一九〇〇年十月二十五日に公布された大韓帝国勅令第41号を中心にした記述をする。
  韓国の勅令が関係するなどは、県民は誰も知らない。何しろ報告書があげている竹島関係書籍の奥原碧雲『竹島及鬱陵鳥』も、田村清三郎『島根県竹島の新研究』にしても、両書ともに何らの言及もしていないのであるから、竹島の問題とどのように関係をもつのかなどわからないのである。だから勅令にある石島が独島ではないかという説明など、如何にも唐突といわなければならないのである。   竹島の領土編入は、第一に、他国が占領したと認められる形跡がないことを確認し、第二に、中井の会社が同島に小屋を構えていたことから、「占領の事実」があるとして、「無主地先占」の国際法の理論でもって、合法的に行ったという。だがしかし、無主地というのであれば、政府がいう固有領土論とは矛盾する。固有領土というものは、昔からずっと日本の領地であったとするものであるから、無主の地ではなかったことになる。しかも固有領土というのであれば、松島という江戸期以来使っていた島名を捨てて、フランスの捕鯨船が命名したリヤンコ島の呼称で領土申請したのもおかしい。報告書は「竹島領土編入」といっているが、編入した時はリヤンコ島と呼ばれていたリアンクール岩であり、編入した後に竹島と命名したのである。
(つづく)
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)