Re: 「島根県竹島報告書」に異議あり2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/04/09 20:21 投稿番号: [12711 / 18519]
幕府が出した奉書に署名している四名のうち、二名は老中ではないのであるから、一六一八年という説は成立しない。四名全員が老中になるのは一六二二年であるから、その年以降でなければならない。一六二五年というのは池内敏氏の説である(『鳥取地域史研究』第1号、一九九九年)。竹島渡海免許の奉書には五月十六日とあるだけで年号は記していない。
しかし大谷家によって「元和四年(一六一八)」と伝承され、文書のなかにも記されていることから、広く流布され通説になったものと思われる。一六一八年にこだわるのであるなら、いつからそうなったかを明らかにする必要がある。
一六六一年の「竹島拝領」は完全に否定したのか、本文年表ともに出てこない。ここでの竹島とは現竹島のことで、当時は松島である。私はこのことについて、前掲論文では、ことのはじまりは、外務省の川上健三の推定によるもので、大谷家文書から松島渡海の例をいくつかあげて「寛文元年(一六六一)の松島渡海というのは、大谷、村川両家が幕府の正式承認の下に同島におもむくようになった年を意味しているようにも考えられる」と述べたことによる。しかしそれは川上も認めているように、「幕府の内意を得て」というものであり、正式承認などではなかったのである。
以上のように、報告書の限りでいえば、幕府の渡海許可をもらって、米子町人の大谷、村川両家が鬱陵島に渡海して漁をしたというだけの話で、それでもって日本固有領土の例証とするわけにはゆかないであろう。しかも渡海に幕府の許可があったとしても、七十年後に起る竹島一件の結果として、竹島すなわち鬱陵島は朝鮮領であることが確認され、日本人の渡海が禁止される島になるのである。当然に、米子町人の竹島渡海でもって、竹島、松島を日本固有の領土とする認識は否定されるのであった。
ところで、報告書の「古代から近世へ」の中心は安龍幅になっている。近世江戸期の日朝関係史は、安龍幅をキーワードにして展開されたといわんばかりである。
たしかに、韓国側にとっては、安龍福は干山島(独島)を初めて確認した人物として重要であるかもしれないが、日本側にしてみれば、一六九六年(元禄九)の竹島渡海禁止後に鳥取藩に来日してきた朝鮮人という以上の意味はもたないのである。
ただし鳥取藩にとっては、一六九六年六月四日に伯耆国赤崎灘に着岸して以来、八月六日に湖山池を出て加露から出港して帰帆してゆくまでの2か月間にわたって、安龍幅一行十一人を外交使節団と誤認して対応させられた外交案件であったということでは、詳細に解明される必要がある。
幸い、伯耆に来る前に隠岐に寄港している。そのさいの取調記録が海士町の村上家で発見された。安龍幅は朝鮮八道の図を提示して、竹島、松島が江原道に属するとした。この文書は、日本語ができる安龍幅が隠岐の役人に取調べられた時に語った内容を記録しているという意味で重要である。これまでの安龍福関係史料は、抗議来藩した鳥取藩で記録されたものと、帰国後に捕えられて備辺司で行われた取調べでの供述記録などとあるが、いずれもが一方的な記録であり、客観性ということからすれば問題を内包している。
また、鳥取藩池田家文書も貴重である。これまでは限られた範囲での部分利用であった。加えて、もっぱら利用されていたのは、報告書が記している『竹島考』や『竹島渡海由来記抜書控』のような、事件から一〇〇年以上も後になってまとめられた二次史料が中心である。当然に編者の主観的立場での記述が行われているのである。例えば、大谷家文書のなかで幕府の渡海免許交付の年を一六一八年と決めてかかっていることなどは好例である。同時期に記録された一次史料があるならば、それに拠るべきであることはいうまでもない。
一六九三年(元禄六)にはじまる「竹島一件」にしても、朝鮮側に抗議して外交接捗にもちこんだのは、江戸幕府の意を体した対馬藩であった。そうである以上、交渉過程における朝鮮王朝内部での政権交代をもちだすのではなく、日本側からの説明が重要となる。もともと竹島一件なるものは、安龍福の送還を機に、朝鮮人の竹島への出漁禁止を日本側が求めたことからはじまったのである。それが三年の交渉の結果、反対に日本人の竹島渡海を禁止することで終ったのであるから、何故そうなったかを明らかにすべきであろう。
(つづく)
しかし大谷家によって「元和四年(一六一八)」と伝承され、文書のなかにも記されていることから、広く流布され通説になったものと思われる。一六一八年にこだわるのであるなら、いつからそうなったかを明らかにする必要がある。
一六六一年の「竹島拝領」は完全に否定したのか、本文年表ともに出てこない。ここでの竹島とは現竹島のことで、当時は松島である。私はこのことについて、前掲論文では、ことのはじまりは、外務省の川上健三の推定によるもので、大谷家文書から松島渡海の例をいくつかあげて「寛文元年(一六六一)の松島渡海というのは、大谷、村川両家が幕府の正式承認の下に同島におもむくようになった年を意味しているようにも考えられる」と述べたことによる。しかしそれは川上も認めているように、「幕府の内意を得て」というものであり、正式承認などではなかったのである。
以上のように、報告書の限りでいえば、幕府の渡海許可をもらって、米子町人の大谷、村川両家が鬱陵島に渡海して漁をしたというだけの話で、それでもって日本固有領土の例証とするわけにはゆかないであろう。しかも渡海に幕府の許可があったとしても、七十年後に起る竹島一件の結果として、竹島すなわち鬱陵島は朝鮮領であることが確認され、日本人の渡海が禁止される島になるのである。当然に、米子町人の竹島渡海でもって、竹島、松島を日本固有の領土とする認識は否定されるのであった。
ところで、報告書の「古代から近世へ」の中心は安龍幅になっている。近世江戸期の日朝関係史は、安龍幅をキーワードにして展開されたといわんばかりである。
たしかに、韓国側にとっては、安龍福は干山島(独島)を初めて確認した人物として重要であるかもしれないが、日本側にしてみれば、一六九六年(元禄九)の竹島渡海禁止後に鳥取藩に来日してきた朝鮮人という以上の意味はもたないのである。
ただし鳥取藩にとっては、一六九六年六月四日に伯耆国赤崎灘に着岸して以来、八月六日に湖山池を出て加露から出港して帰帆してゆくまでの2か月間にわたって、安龍幅一行十一人を外交使節団と誤認して対応させられた外交案件であったということでは、詳細に解明される必要がある。
幸い、伯耆に来る前に隠岐に寄港している。そのさいの取調記録が海士町の村上家で発見された。安龍幅は朝鮮八道の図を提示して、竹島、松島が江原道に属するとした。この文書は、日本語ができる安龍幅が隠岐の役人に取調べられた時に語った内容を記録しているという意味で重要である。これまでの安龍福関係史料は、抗議来藩した鳥取藩で記録されたものと、帰国後に捕えられて備辺司で行われた取調べでの供述記録などとあるが、いずれもが一方的な記録であり、客観性ということからすれば問題を内包している。
また、鳥取藩池田家文書も貴重である。これまでは限られた範囲での部分利用であった。加えて、もっぱら利用されていたのは、報告書が記している『竹島考』や『竹島渡海由来記抜書控』のような、事件から一〇〇年以上も後になってまとめられた二次史料が中心である。当然に編者の主観的立場での記述が行われているのである。例えば、大谷家文書のなかで幕府の渡海免許交付の年を一六一八年と決めてかかっていることなどは好例である。同時期に記録された一次史料があるならば、それに拠るべきであることはいうまでもない。
一六九三年(元禄六)にはじまる「竹島一件」にしても、朝鮮側に抗議して外交接捗にもちこんだのは、江戸幕府の意を体した対馬藩であった。そうである以上、交渉過程における朝鮮王朝内部での政権交代をもちだすのではなく、日本側からの説明が重要となる。もともと竹島一件なるものは、安龍福の送還を機に、朝鮮人の竹島への出漁禁止を日本側が求めたことからはじまったのである。それが三年の交渉の結果、反対に日本人の竹島渡海を禁止することで終ったのであるから、何故そうなったかを明らかにすべきであろう。
(つづく)
これは メッセージ 12710 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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