「島根県竹島報告書」に異議あり1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/04/09 20:20 投稿番号: [12710 / 18519]
半月城です。内藤正中氏が「島根県竹島報告書に異議あり」と題する文を『郷土石見』4月号に書き、下條正男氏が座長をつとめる「竹島問題研究会」を批判しています。それを著者の了解を得て、数回に分けて転載します。リンクは参考のためにつけ加えました。
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「島根県竹島報告書に異議あり」
-- 竹島の領有権問題 --
内藤正中
はじめに
二〇〇六年二月発行の『フォトしまね』161号の竹島特集は、島根県が設置した竹島問題研究会の中間報告ということで、五回にわたって研究会で検討された論点を整理するかたちで発表された。
島根県は、外務省が主張する「竹島日本固有領土論」にもとづいて、一年前の定例県議会で「竹島の日」を県の条例で定めた。しかし、いうところの固有領土論については、すでに各方面から疑問が出されている。
したがって、島根県の竹島問題研究会としては、固有領土論に内在する諸問題を解明することを最優先の課題にすべきであった。しかし研究会では、それをしないで、もっぱら韓国側の見解を中心にして報告書をまとめたようである。だから、県がいう固有領土論の是非を知りたい県民にとっては、折角の期待を裏切ることになってしまった。
それというのも、報告書は、昨年七月から十一月にかけて山陰中央新報紙上で連載していた下條座長の「発信竹島」をかいつまんでまとめる内容でつくられている。座長として原案を提出したとしても、研究会で果してどれほど時間をかけて審議したかどうかは疑問である。
私も十二月の研究会に出席して意見を述べる機会があった。そこで申し上げたことは、島根県と竹島・北方領土返還要求運動県民会議が作成したパンフレットに記載してある「竹島年表」を例にして、記載内容の誤りと重要項目の脱落を指摘しつつ、固有領土論への疑問を述べておいた。併せて私は、研究会の在り方として、相手国のことをアレコレ批判する前に、まず自らの姿勢を正すことから始めるべきであって、日本側の史料、とりわけて関係の深い鳥取藩池田家文書を徹底的に検討して問題を解明することの必要性と重要性について提言したのである。
島根県は、竹島問題を結着させるためには、国際司法裁判所にもちこむことが得策であると考えているようであるが、その是非はともかくとして、そのためにも、日本側の主張を足もとから固めておく必要があると思うが如何。みずからが主張している固有領土論について、必ずしもゆるぎないものとは思っていないと見受けられるだけに、日本側の史料を中心にした検討が必要となる。以下に、報告書の時代区分に従って記してゆくことにしたい。
一.古代から近世へ
島根県が作った「竹島年表」には、外務省のホームページと同じように、一六一八年(元和四)の項目で、「伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陸島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陸島渡航への寄港地、漁猟地として利用されていた。また、遅くとも一六六一年には両家は幕府から竹島を拝領していた」と記している。
これについて私は、伯耆藩は因幡藩か鳥取藩に改めること、鬱陵島や竹島を拝領したなどといっているが、それは大谷家が勝手にいっているだけで公式文書には出てこないこと、封建社会ではたとえ絶海の孤島であっても、町人が土地を領有するということはありえないこと、一六一八年に発給した幕府の奉書に連署している四人のうち、二人は老中ではないこと、したがって一六一八年発給説は間違っていること、その奉書には渡海免許とは記してあるが、竹島拝領などとは記していないことに加えて、一六六一年の松島拝領・渡海免許という史料は存在しないこと、などについて指摘したことがある (『世界』二〇〇五年六月号)。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/naitou2005.pdf
そのためもあってか、報告書はさきの「竹島年表」に比べて大幅な修正が行われている。「竹島年表」での記述(外務省のホームページも同じであるが)が間違っていたというのであれば、正直に誤りを認めるべきではないか。何もいわないで、「一六〇〇年代初め、江戸幕府が大谷、村川両家に限って渡海を許可」とだけ記し、年表では「一六一八年に幕府が両家に渡海を許可」としながら、カッコ書きで「一六二五年の説も」と記している。このことからすれば「鬱陵島拝領」「竹島拝領」は捨てたものの、一六一八年の奉書発給には未だ固執していることがわかる。
(つづく)
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「島根県竹島報告書に異議あり」
-- 竹島の領有権問題 --
内藤正中
はじめに
二〇〇六年二月発行の『フォトしまね』161号の竹島特集は、島根県が設置した竹島問題研究会の中間報告ということで、五回にわたって研究会で検討された論点を整理するかたちで発表された。
島根県は、外務省が主張する「竹島日本固有領土論」にもとづいて、一年前の定例県議会で「竹島の日」を県の条例で定めた。しかし、いうところの固有領土論については、すでに各方面から疑問が出されている。
したがって、島根県の竹島問題研究会としては、固有領土論に内在する諸問題を解明することを最優先の課題にすべきであった。しかし研究会では、それをしないで、もっぱら韓国側の見解を中心にして報告書をまとめたようである。だから、県がいう固有領土論の是非を知りたい県民にとっては、折角の期待を裏切ることになってしまった。
それというのも、報告書は、昨年七月から十一月にかけて山陰中央新報紙上で連載していた下條座長の「発信竹島」をかいつまんでまとめる内容でつくられている。座長として原案を提出したとしても、研究会で果してどれほど時間をかけて審議したかどうかは疑問である。
私も十二月の研究会に出席して意見を述べる機会があった。そこで申し上げたことは、島根県と竹島・北方領土返還要求運動県民会議が作成したパンフレットに記載してある「竹島年表」を例にして、記載内容の誤りと重要項目の脱落を指摘しつつ、固有領土論への疑問を述べておいた。併せて私は、研究会の在り方として、相手国のことをアレコレ批判する前に、まず自らの姿勢を正すことから始めるべきであって、日本側の史料、とりわけて関係の深い鳥取藩池田家文書を徹底的に検討して問題を解明することの必要性と重要性について提言したのである。
島根県は、竹島問題を結着させるためには、国際司法裁判所にもちこむことが得策であると考えているようであるが、その是非はともかくとして、そのためにも、日本側の主張を足もとから固めておく必要があると思うが如何。みずからが主張している固有領土論について、必ずしもゆるぎないものとは思っていないと見受けられるだけに、日本側の史料を中心にした検討が必要となる。以下に、報告書の時代区分に従って記してゆくことにしたい。
一.古代から近世へ
島根県が作った「竹島年表」には、外務省のホームページと同じように、一六一八年(元和四)の項目で、「伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陸島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陸島渡航への寄港地、漁猟地として利用されていた。また、遅くとも一六六一年には両家は幕府から竹島を拝領していた」と記している。
これについて私は、伯耆藩は因幡藩か鳥取藩に改めること、鬱陵島や竹島を拝領したなどといっているが、それは大谷家が勝手にいっているだけで公式文書には出てこないこと、封建社会ではたとえ絶海の孤島であっても、町人が土地を領有するということはありえないこと、一六一八年に発給した幕府の奉書に連署している四人のうち、二人は老中ではないこと、したがって一六一八年発給説は間違っていること、その奉書には渡海免許とは記してあるが、竹島拝領などとは記していないことに加えて、一六六一年の松島拝領・渡海免許という史料は存在しないこと、などについて指摘したことがある (『世界』二〇〇五年六月号)。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/naitou2005.pdf
そのためもあってか、報告書はさきの「竹島年表」に比べて大幅な修正が行われている。「竹島年表」での記述(外務省のホームページも同じであるが)が間違っていたというのであれば、正直に誤りを認めるべきではないか。何もいわないで、「一六〇〇年代初め、江戸幕府が大谷、村川両家に限って渡海を許可」とだけ記し、年表では「一六一八年に幕府が両家に渡海を許可」としながら、カッコ書きで「一六二五年の説も」と記している。このことからすれば「鬱陵島拝領」「竹島拝領」は捨てたものの、一六一八年の奉書発給には未だ固執していることがわかる。
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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