安龍福の于山島像、竹嶼編3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/03/26 16:52 投稿番号: [12627 / 18519]
そのような予備知識や伝承が先ほどの『輿地志』逸文に反映したと思われます。ただ、『輿地志』逸文で于山島が日本でいう松島であるという認識はどこから生じたのか、これはナゾです。
もっとも下條氏にいわせれば、『輿地志』逸文は「改ざん」されたのだろうとのことですが、私もかれの主張や発想には毎度のことながらあきれています。
これについてはすでに詳細に書いたのでふれませんが、そもそも他人が容易に『輿地志』の原文を確認できるような時代にあって、学者が他人の文章をわざわざ「改ざん」して引用するなんて、およそ想像もつきません。そんな改ざんで名誉を損じることはあっても、得することは何も考えられません。
ともあれ「竹島一件」のころは朝鮮で官民ともに竹島=独島の位置をきちんと認識していたのですが、それ以後、政府レベルでは于山島がだんだん書物だけの世界になり、その位置すらあいまいになっていきました。それも、竹島=独島は政府にとってほとんど利用価値がない岩であったので、前近代では自然な成りゆきだったと思います。
世界史的には、シベリアであれ、アメリカ中西部であれ、本国政府にとって利用価値が高くない土地は粗末に扱われがちです。ほとんど二束三文で売り払われました。そこが金の卵を生む黄金地帯と気づいた時はもう後の祭りです。
竹島=独島の場合は買い手もなかったのでそのままになったのですが、その結果、朝鮮政府にとって竹島=独島は次第に林志弦教授のいう「辺境地帯」になっていったようでした。
一方、民間レベルでは記録がないのではっきりしませんが、1904年になって、突然、竹島=独島と朝鮮漁民とのかかわりが記録に表れました。ご存知のことと思いますが、『軍艦新高行動日誌』1904年9月25日条に「独島」の名がこう記されました。
「松島ニ於テ『リアンコルド』岩 實見者ヨリ聽取シタル情報『リヤンコルド』岩 韓人之ヲ獨島ト書シ 本邦漁夫等 略シテ『リヤンコ』島ト呼称セリ」
こうした記録からすると、すでに1904年以前に欝陵島の韓国人は竹島=独島へ往来していたようです。これは竹島=独島の伝承が17世紀以来連綿と続いていたのかどうかは疑問ですが。
しかし、たとえそうした伝承が途切れたとしても、竹島=独島は欝陵島から視認できるだけに欝陵島の付属島あるいは一対として意識されたことでしょう。多くの官撰史書で于山、鬱陵は一対で扱われました。日本でも竹島=独島には松の木どころか、樹木が1本もないのに松島と名づけられたのは、もちろん両島が一対であるという意識からです。
ただ、韓国でこの一対の意識が強すぎたのか、地図で于山島は欝陵島に近い所に描かれ、竹嶼と誤解される余地を残してしまいました。それが明治政府に竹島=独島は「無主地」であるという口実を与え、帝国主義的領土編入を許す結果になってしまったようです。
(注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004,P70
(注2)<2点間の距離と方位計算ツール>
http://www.vector.co.jp/soft/win31/home/se078042.html?g
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
もっとも下條氏にいわせれば、『輿地志』逸文は「改ざん」されたのだろうとのことですが、私もかれの主張や発想には毎度のことながらあきれています。
これについてはすでに詳細に書いたのでふれませんが、そもそも他人が容易に『輿地志』の原文を確認できるような時代にあって、学者が他人の文章をわざわざ「改ざん」して引用するなんて、およそ想像もつきません。そんな改ざんで名誉を損じることはあっても、得することは何も考えられません。
ともあれ「竹島一件」のころは朝鮮で官民ともに竹島=独島の位置をきちんと認識していたのですが、それ以後、政府レベルでは于山島がだんだん書物だけの世界になり、その位置すらあいまいになっていきました。それも、竹島=独島は政府にとってほとんど利用価値がない岩であったので、前近代では自然な成りゆきだったと思います。
世界史的には、シベリアであれ、アメリカ中西部であれ、本国政府にとって利用価値が高くない土地は粗末に扱われがちです。ほとんど二束三文で売り払われました。そこが金の卵を生む黄金地帯と気づいた時はもう後の祭りです。
竹島=独島の場合は買い手もなかったのでそのままになったのですが、その結果、朝鮮政府にとって竹島=独島は次第に林志弦教授のいう「辺境地帯」になっていったようでした。
一方、民間レベルでは記録がないのではっきりしませんが、1904年になって、突然、竹島=独島と朝鮮漁民とのかかわりが記録に表れました。ご存知のことと思いますが、『軍艦新高行動日誌』1904年9月25日条に「独島」の名がこう記されました。
「松島ニ於テ『リアンコルド』岩 實見者ヨリ聽取シタル情報『リヤンコルド』岩 韓人之ヲ獨島ト書シ 本邦漁夫等 略シテ『リヤンコ』島ト呼称セリ」
こうした記録からすると、すでに1904年以前に欝陵島の韓国人は竹島=独島へ往来していたようです。これは竹島=独島の伝承が17世紀以来連綿と続いていたのかどうかは疑問ですが。
しかし、たとえそうした伝承が途切れたとしても、竹島=独島は欝陵島から視認できるだけに欝陵島の付属島あるいは一対として意識されたことでしょう。多くの官撰史書で于山、鬱陵は一対で扱われました。日本でも竹島=独島には松の木どころか、樹木が1本もないのに松島と名づけられたのは、もちろん両島が一対であるという意識からです。
ただ、韓国でこの一対の意識が強すぎたのか、地図で于山島は欝陵島に近い所に描かれ、竹嶼と誤解される余地を残してしまいました。それが明治政府に竹島=独島は「無主地」であるという口実を与え、帝国主義的領土編入を許す結果になってしまったようです。
(注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004,P70
(注2)<2点間の距離と方位計算ツール>
http://www.vector.co.jp/soft/win31/home/se078042.html?g
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 12626 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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