竹島

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一時帰国されていたとはお懐かしい・・・・

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/10/29 22:32 投稿番号: [12268 / 18519]
【引用開始】

『日本地誌提要』の隠岐國松島竹島 2005/10/29 14:57 [ No.12262 / 12267 ]
投稿者 : allarefriends2000

明治期1905年以前の竹島認識として代表的日本地誌『日本地誌提要』『大日本地名辭書』の例を示す。

『日本地誌提要』(明治11(1878)年1月刊)は隠岐國島嶼の項に「又西北ニ方リテ松島竹島ノ二島アリ」と記した。『日本地誌提要』は、塚本明毅の下で「皇国地誌」作成に携っていた太政官正院地誌課が、1873年ウイン万国博出陳の日本地図の説明として幕府資料から纏めた日本国略誌を基に編纂したもので、和銅の風土記につぐ官撰地誌とされる(石田龍次郎:日本における近代地理学の成立.大明堂, 1984)。

頓挫した「皇国地誌」の後継ともいえる吉田東伍『大日本地名辭書』(1900年初版)も、同じく隠岐國北方蘄浦の項で竹島の沿革を詳説し次の様に結んだ:・・明治維新後、又漁民の来往するものありて、地誌提要には隠岐國の下に附載して曰く、土俗相傳ふ、蘄浦より松島に至る海路凡六十九里、竹島に至る、海路凡百里、朝鮮に至る、海路凡百三十六里と、松島とは輿地勝覽の三峰島なるべし、明治十六年、更に日韓両政府の談判あり、我往漁の舟を還して、再往するなからしめ、明に朝鮮の所屬と爲しぬ。

竹島(鬱陵島)は、林羅山『本朝地理志略』(寛永20(1643)年奥書)で隠岐國条に記されたが(Nos.10197, 10287)、元禄9(1696)年の「竹島一件」落着以後、朝鮮領とされたので、日本国地誌に現れることはなかった。更に、明治10(1877)年3月太政官は「竹島外一島本邦関係無之」とした。幕府史料に詳しい地誌課はこの決定に関ったと思われる。それにも拘らず、塚本明毅が松島竹島を隠岐の島嶼としたのは、初期の「竹島経営」や幕末の松浦武四郎・吉田松陰・坂本龍馬らの「竹島開墾論」(岸本覚:幕末海防論と「境界」意識.江戸の思想, 9, ペリカン社, 1998)等への断ち難い思いの表明であろう。なお、塚本の墓碑は「断然松島(鬱陵島)ヲ開クベカラズ」と論じたハト派外交官田邊太一が書いた。
http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/tsukamotohi.htm

隠岐国福浦の湊は正保国絵図(1645年頃作成)に「竹嶋渡海此湊ニ而天気見合」と記された。これと同じ文言は、竹島渡海が禁じられて百有余年を経た、文政9(1826)年の隠岐国絵図にも見られる(川村博忠:国絵図の世界.柏書房, 2005)。朝鮮半島は「大日本」の版図という認識がなかった(千田稔:地名の巨人吉田東伍―大日本地名辞書の誕生.角川書店, 2003)吉田東伍は、竹島を隠岐國北方蘄浦の項に書くことによって、隠岐の人々が伝えてきた竹島との繋がりを示そうとしたのであろう。

【引用終わり】

加奈さん、帰国されていたのですか。とんと、存じませんでした。
allarefriends2000さんが福浦の記事を書かれているので、愚老もこのトピに少し興味をそそられていたところでしたわい。  

上に、隠岐国福浦の湊は正保国絵図(1645年頃作成)に「竹嶋渡海此湊ニ而天気見合」と記されたとありますが、「隠岐の国絵図」文政9年(1826年)のものにも、南方村、北方村之内福浦のところに「此湊船懸吉・竹嶋江之渡海此湊ニ而天気見合ル」とあり、国立公文書館蔵の「隠岐国高村数○郡色分目録絵図 」にも「此湊船懸吉・竹嶋迄之渡海此湊ニ而天気見合ル」とあることからも江戸時代を通して福浦から竹嶋(鬱稜)まで往来で賑あったことは確かですな。

マッ、今となっては、どうでもよいことですけどもな。
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