本朝地理志略と隠州視聴合紀の竹島
投稿者: allarefriends2000 投稿日時: 2005/07/23 10:26 投稿番号: [10197 / 18519]
幕府儒官林羅山は「本朝地理志略」で竹島(鬱陵島)を隠岐國に所属させた。これは松江藩によって拒否されたが、「隠州視聴合紀」の竹島記事に影響した可能性を考える。
「本朝地理志略」(續々群書類従, 巻8所収)は林羅山が、寛永20(1643)年朝鮮國信使申竹堂の求めに応じて、日本國の地理を国別に略述したものである。羅山は、その中の隠岐國の最後に、「隠岐海上有竹嶋多竹多鰒味甚美海獣曰葦鹿」と記した。
林羅山は、慶長10(1605)年徳川家康に見えてから、その博識と文筆の才によって重用され、幕府文書の管理にも携っていた。従って、磯竹島を巡る対馬藩と朝鮮の交渉や大谷・村川両家の「竹島渡海免許」について充分承知しており、その上で羅山は、竹島を隠岐國の一部とし、しかもそれを朝鮮國信使に贈呈した日本國地理書中に明記したのである。
儒学のみならず地理歴史も本朝一と自負した羅山のこの考えは、しかしながら、隠岐國を預地として統治していた肝心の松江藩には通じなかったようである。正保2(1645)年頃幕命により作られた「出雲国絵図付隠岐国」には、神代以来の隠伎之三子島だけが描かれた。松江藩は、寛永18 (1641) 年羅山の推挙により儒官として黒澤弘忠を召抱えているから、羅山の意向を知らなかったとは思えない。しかし鳥取藩との関係もあり、敢えて無視したのであろう。
後に、藩儒として相応の地位を得た黒澤弘忠は、師羅山の思いを齋藤勘介に託そうとした。「隠州視聴合紀」(寛文7(1667)年成立)は黒澤弘忠の出雲国地誌「懐橘談」(寛文元(1661)年完成)の影響があると云われる。齋藤勘介は、「戍亥間行二日一夜有松島又一日程有竹島俗言磯竹島多竹魚海鹿此二島無人之地見高麗如自雲州望隠岐」と「本朝地理志略」の簡を補い、竹島を詳述した。ところが最後で、「然則日本之乾地以此州為限矣」と日本の西北境を隠州に後退させたのは何か不自然である。彼は「島」と書きたかったのではないか?しかし松江藩首脳がこれを許さなかった。やむを得ず「州」としたが、後世、多くの人に「シマ」と読まれ、齋藤勘介はきっと満足していると思う。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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