>本朝地理志略と隠州視聴合紀の竹島
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/23 13:12 投稿番号: [10198 / 18519]
【引用開始】
後に、藩儒として相応の地位を得た黒澤弘忠は、師羅山の思いを齋藤勘介に託そうとした。「隠州視聴合紀」(寛文7(1667)年成立)は黒澤弘忠の出雲国地誌「懐橘談」(寛文元(1661)年完成)の影響があると云われる。齋藤勘介は、「戍亥間行二日一夜有松島又一日程有竹島俗言磯竹島多竹魚海鹿此二島無人之地見高麗如自雲州望隠岐」と「本朝地理志略」の簡を補い、竹島を詳述した。ところが最後で、「然則日本之乾地以此州為限矣」と日本の西北境を隠州に後退させたのは何か不自然である。彼は「島」と書きたかったのではないか?しかし松江藩首脳がこれを許さなかった。やむを得ず「州」としたが、後世、多くの人に「シマ」と読まれ、齋藤勘介はきっと満足していると思う。
【引用終了】
御意
江戸時代の知識人には
「シマ」としか読めなかった・・・
これは メッセージ 10197 (allarefriends2000 さん)への返信です.
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