新発見「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/07/18 20:49 投稿番号: [10184 / 18519]
朝鮮の八道
京畿道
江原道 この道に竹島、松島がある
全羅道
忠清道
平安道
咸鏡道
黄海道
慶尚道
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この覚書をみると、安龍福は竹島(鬱陵島)や松島(竹島=独島)の位置をきちんと把握していたことがわかります。下條正男氏すら「安龍福が、于山島が松島(竹島)であると確信的に思いこんで述べていたことがよく分かる文書」と語り、それまでの自説を覆さざるを得なかったほどでした。
その一方、安龍福は松島(竹島=独島)が江原道に所属するということを隠岐の官吏に力説していたようすがうかがえます。それを鳥取藩の伯耆守に訴えるのが安龍福の来日の主目的であったことが明らかです。
また、隠岐国も鳥取藩にそのように伝えていたことが『御在府日記』から明らかです。それを意訳すると「隠岐国より申しきたるところによると、安龍福一行は竹島之義について御訴訟に参ったと申している」と書かれていました。
ただし、『御在府日記』はここから先をとぼけて事件を記しました。『御在府日記』は「様子をみるように平井金左衛門に命じたところ、通訳もなく埒があかない」などと記しましたが、これはウソであることが判明しています。
安龍福は、隠岐では官吏と十分に意思疎通ができたのに、鳥取藩の官吏と意思疎通ができないはずはありません。そもそも、かれは前回日本へ連行されたときは「和語訳者」とか「通詞」すなわち通訳として日本側の史料に記録されたくらいでしたので、日本語が通じないはずはありません。
さらに『御在府日記』は「あんひちゃん(安龍福)たちは竹島訴訟のようにも聞こえないと金左衛門からうけたまっている」と記しましたが、ここにも鳥取藩の作為があるようです。そうした作為の背景を内藤正中氏はこう記しました。
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予め隠岐国代官から連絡があったように、「竹島の義に付 御訴訟に参り候」というのであれば、米子城主の荒尾大和が指示したといっているように、長崎奉行所に送ればよいのである。
強制的に送還しないまでも、相手にしないで追い返すこともあったはずである。そのいずれもとらず、八日間も青谷に滞在させ、村民との交流を許したのは何故なのか。
さらに城下鳥取に迎えて、後述のような厚遇を与えたのは何故なのかなど、鳥取藩がとった対応には疑問が多いのである。
そこで考えられることは、安同知(安龍福)が「三品堂上」を名乗ったことに対して、鳥取藩は朝鮮からの外交使節として、最大限の敬意を払ったのではないかということである。
したがって前述した米子城主 荒尾大和が、外国人からの訴訟は長崎でしか取りあげないと、伯耆 着船の当初に説諭したとかいわれている原則性は、鳥取藩では完全に忘れ去られていたというべきであろう(注1,P102)。
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鳥取藩は、このようにイレギュラーな対応をしたので、その痕跡を史料に残さないようにして『御在府日記』が書かれたのではないかと思われます。
一方、韓国の史料『粛宗実録』などに記された安龍福の供述は矛盾の多いことが前から指摘されていましたが、それが今回の史料で改めて浮き彫りになりました。内藤氏はそうした違いをこう記しました。
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『実録』供述との差異
『実録』での供述との差異は、鳥取城下に入る時の服装でも見られる。安龍福がほか一人とともにかごに乗っていたのは事実であるが、青帖裏の官服を着て革の靴をはいていたというのは、事実ではないと思われる。
隠岐での船内所有道具の調査では、そうした衣類を所持していたという記録はない。安龍福の服装は「冠ノヤウナル黒キ笠」「アサキ木綿の上着」で、腰に札をつけていた、とだけある。
また安龍福は鬱陵島で日本人に出会った時、「鬱陵島は我が境域である。何故倭人が越境侵犯しているのか」と大声で怒鳴り、さらに松島へ行き「松島は子山島、そこもわが国のものだ」と称し、隠岐まで追いかけたと供述している。しかしこの一年は、一月に出された幕府の渡海禁止令のため、日本人は誰も渡海していなかったのであるから、この言動はすべて作り話となる(注2)。
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(つづく)
京畿道
江原道 この道に竹島、松島がある
全羅道
忠清道
平安道
咸鏡道
黄海道
慶尚道
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この覚書をみると、安龍福は竹島(鬱陵島)や松島(竹島=独島)の位置をきちんと把握していたことがわかります。下條正男氏すら「安龍福が、于山島が松島(竹島)であると確信的に思いこんで述べていたことがよく分かる文書」と語り、それまでの自説を覆さざるを得なかったほどでした。
その一方、安龍福は松島(竹島=独島)が江原道に所属するということを隠岐の官吏に力説していたようすがうかがえます。それを鳥取藩の伯耆守に訴えるのが安龍福の来日の主目的であったことが明らかです。
また、隠岐国も鳥取藩にそのように伝えていたことが『御在府日記』から明らかです。それを意訳すると「隠岐国より申しきたるところによると、安龍福一行は竹島之義について御訴訟に参ったと申している」と書かれていました。
ただし、『御在府日記』はここから先をとぼけて事件を記しました。『御在府日記』は「様子をみるように平井金左衛門に命じたところ、通訳もなく埒があかない」などと記しましたが、これはウソであることが判明しています。
安龍福は、隠岐では官吏と十分に意思疎通ができたのに、鳥取藩の官吏と意思疎通ができないはずはありません。そもそも、かれは前回日本へ連行されたときは「和語訳者」とか「通詞」すなわち通訳として日本側の史料に記録されたくらいでしたので、日本語が通じないはずはありません。
さらに『御在府日記』は「あんひちゃん(安龍福)たちは竹島訴訟のようにも聞こえないと金左衛門からうけたまっている」と記しましたが、ここにも鳥取藩の作為があるようです。そうした作為の背景を内藤正中氏はこう記しました。
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予め隠岐国代官から連絡があったように、「竹島の義に付 御訴訟に参り候」というのであれば、米子城主の荒尾大和が指示したといっているように、長崎奉行所に送ればよいのである。
強制的に送還しないまでも、相手にしないで追い返すこともあったはずである。そのいずれもとらず、八日間も青谷に滞在させ、村民との交流を許したのは何故なのか。
さらに城下鳥取に迎えて、後述のような厚遇を与えたのは何故なのかなど、鳥取藩がとった対応には疑問が多いのである。
そこで考えられることは、安同知(安龍福)が「三品堂上」を名乗ったことに対して、鳥取藩は朝鮮からの外交使節として、最大限の敬意を払ったのではないかということである。
したがって前述した米子城主 荒尾大和が、外国人からの訴訟は長崎でしか取りあげないと、伯耆 着船の当初に説諭したとかいわれている原則性は、鳥取藩では完全に忘れ去られていたというべきであろう(注1,P102)。
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鳥取藩は、このようにイレギュラーな対応をしたので、その痕跡を史料に残さないようにして『御在府日記』が書かれたのではないかと思われます。
一方、韓国の史料『粛宗実録』などに記された安龍福の供述は矛盾の多いことが前から指摘されていましたが、それが今回の史料で改めて浮き彫りになりました。内藤氏はそうした違いをこう記しました。
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『実録』供述との差異
『実録』での供述との差異は、鳥取城下に入る時の服装でも見られる。安龍福がほか一人とともにかごに乗っていたのは事実であるが、青帖裏の官服を着て革の靴をはいていたというのは、事実ではないと思われる。
隠岐での船内所有道具の調査では、そうした衣類を所持していたという記録はない。安龍福の服装は「冠ノヤウナル黒キ笠」「アサキ木綿の上着」で、腰に札をつけていた、とだけある。
また安龍福は鬱陵島で日本人に出会った時、「鬱陵島は我が境域である。何故倭人が越境侵犯しているのか」と大声で怒鳴り、さらに松島へ行き「松島は子山島、そこもわが国のものだ」と称し、隠岐まで追いかけたと供述している。しかしこの一年は、一月に出された幕府の渡海禁止令のため、日本人は誰も渡海していなかったのであるから、この言動はすべて作り話となる(注2)。
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(つづく)
これは メッセージ 10183 (hangetsujoh さん)への返信です.
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