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お〜〜い!アホイニィ!

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2005/04/06 23:36 投稿番号: [22062 / 43168]
>しかし、独島は全然違いますぞ。我ら1,500年前からその島を我が国の領土としてるとみんなが信じているし、我らの史書もそれを裏づけいます。

信じるのは勝手だが(笑
史書は「裏付けて無い」ぞ?(苦笑

三国史記−卷四・新羅本紀・智証麻立干
  智証王13年(512年)夏6月条
「十三年夏六月、于山国帰服、歳以士宜為貢
于山国、在溟州正東海島、或名欝陵島、
地方一百里、恃嶮不服、
伊異斯夫、為何瑟羅州軍主、謂于山人愚悍
難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、
分載戦船、
抵其国海岸誑告白、汝若不服、
則放此猛獣、踏殺之、国人恐懼則降」

「干山国、溟州正東に在る海島、。或いは名、鬱陵島。地、方一百里」

と、明記しているように、于山国の別名は鬱陵島だと記している。
干山国とは鬱陵島のみを指し、尚かつ、その領域は方百里(百里平方)ほどの広さに過ぎないと記している

朝鮮の一里は400メートル
百里は40km。

「地、方百里」を平方キロメートルに直すと、40km四方、即ち、約1600平方キロメートル。
鬱陵島自体は面積73.15km²
つまり、「于山国」は鬱陵島を含む周囲40km四方。

鬱陵島と竹島は90km

竹島とは関係の無いことは、常人なら理解できるよなぁ?(苦笑
従って、三国史記の「干山島帰服す」の記事は、竹島を干山国の領域に含め、属島であったとする傍証にはならない。

三国遺事

巻一   智哲老王

何琵羅州今溟州東海中、便風二日程、有于陵島今作羽陵、周廻二万六千七百三十歩、島夷恃其水深、橋傲不臣、王命伊喰朴伊宗、将兵討之、宗作木偶師子、載於大艦之上、威之云、不降則放此獣、島夷畏而降、賞宗為州伯

「便風二日程」
これは、二日で到る距離でしょうね
本土から鬱陵島に到る距離ということね


三国史記

巻四   智證麻于十三年夏六月条

于山国征服、歳以土宜為貢、于山国、在溟州東海島、或名鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降

↑う〜む。こっちは于山国って書いてあるけど。別名を鬱陵島と言うと書いてある。

高麗史   地理誌
卷五十八   蔚珍県

在県東海中、新羅時称于山国、一云武陵、一云羽陵、地方百里、智証王十二年来降、
大祖十三年、其島人使白、吉土豆献方物、
毅宗十一年、王聞欝陵、地広土肥、旧有州県、可以居民、遣溟州道監倉金柔立、往視、
柔立回奏云、島中有大山、従山頂向東行、至海、一万余歩、向西行、一万三千余行、
向南行、一万五千余歩、向北行、八千余歩、有村落基址七所、有石仏・鉄鐘・石塔・多生柴胡
・藁本・石南草・然多岩石、民不可居、遂寝其議、
一云于山、武陵本二島、相距不遠、風日清明、。則可望見

「一云于山、武陵本二島、相距不遠」
90km(里程では225里)は「相距不遠」とは、言わんわなぁ・・・
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