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◇歴史ある街から共生の道を

投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/08/11 23:38 投稿番号: [5984 / 7270]
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/58   旧木野村   大阪市生野区   /大阪

  キョンチャルアパートを出て、韓国家庭料理のアリラン食堂で一服し、旧平野街道の本通りを南へ。車道を越えると、商店街から民家が建ち並ぶ集落へと街は姿を変える。

  そぞろ歩けば、白壁に板塀の古民家がいくつも現れた。大阪案内人の西俣稔さんが「明治時代からある旧木野(この)村です」。渡された「生野区の変貌」と題した地図を見ると、1885(明治18)年の生野区の人口はわずか約1000人。集落が点在しており、猪飼野村のすぐ西に木野村の名が見える。蔵があるでっかいお屋敷は、昔の庄屋さん。

  集落の中にある弥栄(やえ)神社(桃谷2)の東の道が旧平野街道。「文化住宅   空有ります」の張り紙があったりする。平成のにおいはまったくしない。そんな街を歩いていると、妙に安らぐ。

  西俣さんが、ふいと細い路地に入った。何の変哲もない路地やけど?   「ここは川の中やってん。百済川と呼ばれた旧平野川の川筋です。そこに段差があるのは、土手やったから」。旧平野川はえらく蛇行していて、氾濫(はんらん)の元になった。そこで1923(大正12)年、新平野川が開削された。新平野川は定規で引いたようにまっすぐになっているのは、そのためだ。

  「旧平野川の埋め立てと、新平野川の開削には、朝鮮半島の済州島の人たちが労働力として使われたんです」。先の「生野区の変貌」によると、1925(大正14)年の人口は約8万5000人に増えている。人口増の一因が朝鮮半島からの移住者だと考えられる。

     ◇

  以下、猪飼野保存会が97年に発行した「猪飼野郷土誌」によって、生野区が在日コリアンの町となった経緯をみてみよう。

  朝鮮半島からの移住が本格的に始まったのは大正半ば。日本が植民地支配し、土地所有を明らかにする調査を実施したが、所有を登録していない農民が多く、土地を奪われて生活に窮した農民が日本に生活の場を求めて移住した。

  なぜ生野区に多いのか。新平野川開削工事を因とする説が一般的だが、同誌は開削工事以前に大阪の紡績工場や造船所などが朝鮮半島で工場労働者を募っており、既に朝鮮集落が点在していたとする。平野川開削工事は他より賃金が良く、労働者が集まって来て集落が大きくなっていった。

  済州島出身者が多いのは、1922(大正11)年に大阪−済州島間に君が代丸が就航したのが最大要因。「済州島出身者を雇う零細工場が猪飼野にあったこと、風俗習慣を同じくすること、助け合いの風習が強いことが済州島出身者の猪飼野集住になったと考えられる」と結論付けている。

  日本全体の在日朝鮮人は、大正14年が13万4000人▽昭和5年が30万人▽昭和10年が62万5000人▽昭和15年が119万人−−と、ものすごい勢いで増え続ける。戦時下に入った日本でその数が激増する原因は、強制連行にほかならない。

  つまりは、日本の植民地支配にすべての原因があるわけだ。同誌は「在日朝鮮人のこうした厳しい長い歴史を理解し、ともに猪飼野に住み、より良き猪飼野の町づくりを考えて行かなければならないと思う」と記している。

  西俣さんはこう語る。「生野周辺も、古代から農耕や機織、土木建築、漢字、仏教など先進技術や文化を伝えた渡来人によって築かれた土地です。ところが、約1500年後の1910年から日本の朝鮮半島支配が始まり、多くの朝鮮人が出稼ぎに来て、過酷な労働に携わる。その後も創氏改名や強制連行、戦後もひどい差別が続きます。お世話になった民族にこの仕打ち。ヨン様もいいですが、歴史と現状を広く知ってもらい、大阪から本当の国際化を目指していきたいですな」【松井宏員】

毎日新聞   2007年8月10日
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/osaka/news/20070810ddlk27070512000c.html
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