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Re:  備忘メモ

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/05/17 21:09 投稿番号: [5751 / 7270]
兎亀さんも、言い過ぎた点は謝りますから、そんな怖い顔のアバターにしないで下さい。(苦笑)
「軽視論」トピのあの人に聞いても、あの暴れようです。
資料を読んでた方が、あの時代の京城の様子がよほど分かります。


京城の五大百貨店の隆盛と、それを支えた大衆消費社会の検証
−主として昭和初期から同15年前後まで− 林 廣茂
http://www.jkcf.or.jp/history/3/05-03-1j_hayashi_j.pdf
『昭和に入り日本は 金融恐慌(1927)、世界恐慌(1929)に続く昭和恐慌による大不況(1930)となり苦汁の年月が続いた。朝鮮も同様に不景気に陥ったが、日本より回復が一足早かった。それは、満州国建国(1932)、日満支のブロック化推進などの動きに対応して、朝鮮に補給基地としての工場建設ラッシュが続き、昭和8年に入ると工業生産力が日増しに向上したからである。
  昭和6年から昭和16年にかけて、朝鮮全土に日本企業による約170の大工場が進出した。昭和8年以降にはこれらの工場がフル稼働するようになり、日本人や朝鮮人労働者の懐がうるおった。』

『特に両班階級の朝鮮人が日本製の商品を、日本を代表する三越百貨店というブランド価値で包装してもらって買うことを好んだ。値段は日本国内より15%〜20%高かったがそれでも人気が高かった。』
『この平田百貨店の特色は、どんなに安いものでも、例えば10銭の筆1本でも、お客が希望さえすれば、その家まで配達してくれることだった。
  平田には、近所の店より安いといって、石鹸1個買うのに、10銭の電車賃を払ってやってくる韓国人が多かった。』

『京城の百貨店ビジネスが隆盛し、その6〜7割方が朝鮮人によって支えられていたことがこの著書からも検証できる。』

『昭和初期の京城の朝鮮人女性にとって、百貨店がどういう位置にあったのかがよく分かる。
昭和5年(1930)7月19日の『朝鮮日報』のコラムは言う。
  「現代の流行に巻き込まれた京城の女学生が、一学期の試験を終えると、三越や丁子屋に押しかけて化粧品を買い求めている」。彼女たちは、百貨店での買い物を励みにして試験を乗り切ったのだろうが、コラム氏は批判的である。「彼女たちは、苦労して学費を送ってくれる故郷の両親への土産を買いもしないで、自分だけの欲望を満足させている」と。』
『昭和8年9月22日の同紙のコラムは、最近の若い主婦が務めも果たさす、「サロメみたいに浪費に走っている。キムチも作れず、メイドが作った料理をまずいと文句をつけ、夫や子供と一緒に百貨店の食堂を巡礼している」と怒っている。』

『百貨店は日本人がそのライフスタイルを維持するために不可欠な商品を提供する場所で、日本製及び在朝鮮日本企業による朝鮮製の日本商品を販売した。
しかし日本人経営の4大百貨店を支えたのは日本人顧客だけではなかった。朝鮮人の多くも日本人のライフスタイルを積極的に取り入れ、それを楽しみ維持するために4大百貨店で日本商品を買い求めた。つまり朝鮮人が日本の「社会・精神文化」と「経済・物質文化」を、生活文化のなかにかなりの比重で受け入れていた。だから、当時京城に「日本のマーケティング文化が定着していた」と考えるのが妥当であろう。日本人ばかりでなくこれら朝鮮人も京城を中心とした当時の「日本的大衆消費社会」を支えたコンシューマー(生活者)だった。自分の生活の「必要や欲求」を満たすため、自由意志と経済合理性で買い物をする(つまり、買物ができるだけの経済力を備えた)現代人コンシューマーであった。』
『昭和10年前後の京城では、百貨店の地階の食料品売場(マーケットと呼ばれていた)は連日多くの買い物客が詰め掛けた。これらの日本人や朝鮮人の豊かな都市生活者が、5大百貨店の中核的顧客層であった。』
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