サハリンの韓国人帰還問題(2)
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/04/06 00:49 投稿番号: [5571 / 7270]
韓国では、どうだったのか。
日韓会談でも在サハリン朝鮮人の帰還問題は棚上げにされた。当時の韓国は朝鮮戦争の後遺症である深刻な経済危機に陥っており、経済の安定を図ることが第一に優先され、その上1948年から13年間にわたって独裁政治を行った李承晩、1961年の軍事クーデターによって政権を握った両大統領が、政権の維持に躍起になっていたこともあり、サハリンの同胞のために本腰になっていない。それは、強い反共政策を進めていた李承晩、朴正熙政権の下では、敵対する北朝鮮の友邦であり共産主義国であるソ連からの帰還者の受け入れには当然抵抗があったからである。
つまり、サハリンの同胞は韓国政府から見捨てられたのである。
それでも70年代から民間の韓国人帰還運動が盛んになり、1972年12月に「樺太抑留僑胞帰還促進会」(1980年2月に「中蘇離散家族会」と改称)が結成されている。
1973年10月11日には訪ソ中の田中角栄首相がブレジネフ書記長に対し帰還問題の解決を訴えている。
しかし東西冷戦中の当時は、ソ連の態度は頑なであった。その背景には北朝鮮がある。
北朝鮮は在サハリン朝鮮人の韓国への帰還には強い反対姿勢で臨んだ。日本での帰還運動が始まると、ナホトカの朝鮮総領事館を通じて在サハリン朝鮮人に対する共産主義教育、北朝鮮国籍の取得、北朝鮮への「帰還」を執拗に勧めていった。
帰還運動の活発化につれて、北朝鮮はさらに反対姿勢を強めていった。1973年10月の田中・ブレジネフ会談の直後には、労働党の機関紙『労働新聞』に「在サハリン朝鮮人問題は朝鮮民主主義人民共和国にのみ関わる問題であって、日本の支配層の策動は朝鮮民主主義人民共和国に敵対する政策の表れ」という趣旨の論評を掲載し、激しく批判した。
1977年初めには帰還運動を行っていた一家9人が北朝鮮へ強制追放され、同年11月にはさらに4家族31人が北朝鮮への強制退去を命じられた。これらの事件はサハリンでの帰還運動に大きな衝撃を与え、以後帰還について口にすることさえ困難になった。
こうした抑圧が緩和され、帰還が実現するようになるのは、ゴルバチョフ政権によるペレストロイカが進行し、日ソ、韓ソ関係の改善が進む1980年代末以降のことであった。
日本政府としては、(2)の「徴用」による韓国人の帰還には道義的責任があるだろう(費用負担では日韓基本条約で解決済み)。
しかし以上見てきたように、ソ連・北朝鮮の反対があり、韓国政府の棄民政策があり、積極的に実行しうる政治状況にはなかった。
では、その後どうなったのか。
1989年7月には日韓の赤十字社の協力で「在サハリン韓国人共同支援事業体」が発足。
1990年には韓国とソ連の国交も樹立され、問題の重点は帰還実現から永住帰国へと移っていった。
1995年には、村山富市内閣のもとで、サハリンから韓国へ永住帰国する人達のための500戸のアパートや仁川療養院の建設などに、約33億円の巨費が投入された。
(社会党は終戦後から韓国人帰国事業に消極的で阻害活動をしていたことを付言しておく。)
2000年には韓国に永住帰国者用アパートが完成し、900人が入居した。
日本は責任を果たしたといえる。
あとは日本が渡したお金を使い込んだ韓国政府の責任である。
日本政府によるサハリン残留韓国人への支援策「一時帰国」の問題点。
申請が通ったサハリン在住韓国人の一時帰国に際しては、往復の渡航費・滞在費は日本側の負担となっている。
しかも60歳以上の一時帰国者については、付き添い人を一人同行させる事が認められているが、これがクセ者で、付き添いでやってくるサハリン韓国人二世・三世が日本や韓国をタダで旅行したいがために、一時帰国を申請するケースが少なくなかったという。
実質的に日本政府がつくった”在サハリン韓国人支援共同事業体”が定めた支援対象者の条件は「1945(昭和20)年8月15日以前にサハリンに移住し、引き続き居住している者」というだけ。
一時帰国支援に至っては、支援対象者を選ぶのは韓国側に任されていて、日本側にはチェックする手段もない。
日韓会談でも在サハリン朝鮮人の帰還問題は棚上げにされた。当時の韓国は朝鮮戦争の後遺症である深刻な経済危機に陥っており、経済の安定を図ることが第一に優先され、その上1948年から13年間にわたって独裁政治を行った李承晩、1961年の軍事クーデターによって政権を握った両大統領が、政権の維持に躍起になっていたこともあり、サハリンの同胞のために本腰になっていない。それは、強い反共政策を進めていた李承晩、朴正熙政権の下では、敵対する北朝鮮の友邦であり共産主義国であるソ連からの帰還者の受け入れには当然抵抗があったからである。
つまり、サハリンの同胞は韓国政府から見捨てられたのである。
それでも70年代から民間の韓国人帰還運動が盛んになり、1972年12月に「樺太抑留僑胞帰還促進会」(1980年2月に「中蘇離散家族会」と改称)が結成されている。
1973年10月11日には訪ソ中の田中角栄首相がブレジネフ書記長に対し帰還問題の解決を訴えている。
しかし東西冷戦中の当時は、ソ連の態度は頑なであった。その背景には北朝鮮がある。
北朝鮮は在サハリン朝鮮人の韓国への帰還には強い反対姿勢で臨んだ。日本での帰還運動が始まると、ナホトカの朝鮮総領事館を通じて在サハリン朝鮮人に対する共産主義教育、北朝鮮国籍の取得、北朝鮮への「帰還」を執拗に勧めていった。
帰還運動の活発化につれて、北朝鮮はさらに反対姿勢を強めていった。1973年10月の田中・ブレジネフ会談の直後には、労働党の機関紙『労働新聞』に「在サハリン朝鮮人問題は朝鮮民主主義人民共和国にのみ関わる問題であって、日本の支配層の策動は朝鮮民主主義人民共和国に敵対する政策の表れ」という趣旨の論評を掲載し、激しく批判した。
1977年初めには帰還運動を行っていた一家9人が北朝鮮へ強制追放され、同年11月にはさらに4家族31人が北朝鮮への強制退去を命じられた。これらの事件はサハリンでの帰還運動に大きな衝撃を与え、以後帰還について口にすることさえ困難になった。
こうした抑圧が緩和され、帰還が実現するようになるのは、ゴルバチョフ政権によるペレストロイカが進行し、日ソ、韓ソ関係の改善が進む1980年代末以降のことであった。
日本政府としては、(2)の「徴用」による韓国人の帰還には道義的責任があるだろう(費用負担では日韓基本条約で解決済み)。
しかし以上見てきたように、ソ連・北朝鮮の反対があり、韓国政府の棄民政策があり、積極的に実行しうる政治状況にはなかった。
では、その後どうなったのか。
1989年7月には日韓の赤十字社の協力で「在サハリン韓国人共同支援事業体」が発足。
1990年には韓国とソ連の国交も樹立され、問題の重点は帰還実現から永住帰国へと移っていった。
1995年には、村山富市内閣のもとで、サハリンから韓国へ永住帰国する人達のための500戸のアパートや仁川療養院の建設などに、約33億円の巨費が投入された。
(社会党は終戦後から韓国人帰国事業に消極的で阻害活動をしていたことを付言しておく。)
2000年には韓国に永住帰国者用アパートが完成し、900人が入居した。
日本は責任を果たしたといえる。
あとは日本が渡したお金を使い込んだ韓国政府の責任である。
日本政府によるサハリン残留韓国人への支援策「一時帰国」の問題点。
申請が通ったサハリン在住韓国人の一時帰国に際しては、往復の渡航費・滞在費は日本側の負担となっている。
しかも60歳以上の一時帰国者については、付き添い人を一人同行させる事が認められているが、これがクセ者で、付き添いでやってくるサハリン韓国人二世・三世が日本や韓国をタダで旅行したいがために、一時帰国を申請するケースが少なくなかったという。
実質的に日本政府がつくった”在サハリン韓国人支援共同事業体”が定めた支援対象者の条件は「1945(昭和20)年8月15日以前にサハリンに移住し、引き続き居住している者」というだけ。
一時帰国支援に至っては、支援対象者を選ぶのは韓国側に任されていて、日本側にはチェックする手段もない。
これは メッセージ 5570 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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