Re: 山折哲雄 「『恨』は鎮められないの
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/02/07 03:52 投稿番号: [5004 / 7270]
>それによると、日本語で「うらみ」は「怨」と「恨」にあてられ、ほぼ同じ意味に用いられているが、韓国ではその二つの漢字の意味は区別されなければならない。すなわち「怨」は他人にたいして抱く感情であり、外部の何ものかについて抱く感情である。だからこの感情は外部への復讐(ふくしゅう)によって消去され、晴らされる。ところが「恨」の方はそうではない。それは自分の内部に沈殿し蓄積していく情の固まりなのだ、という。だからその望みがかなえられなければ、解くことができない。換言すれば「怨」は憤怒であり、それにたいして「恨」は悲しみである。怨は火のように炎々と燃えるが、恨は雪のように積もる。
だから何なの?知ったこっちゃねー!ですよ、ほんとに。恨みにしろ悲しみにしろ、他者に甘えて解決を求めてるだけですしー。(苦笑)
>この李御寧さんの説にふれて思い出すのが、80年代に来日して話題を呼んだ韓国人歌手、趙容弼(チョーヨンピル)さんのことだ。氏は「釜山港へ帰れ」や「木浦の涙」をうたって聴く者の魂をゆさぶったが、「恨五百年」という歌もうたっていた。そしてこう言っている、――この恨は韓国人の心の奥にある民族の怒りであるとともに悲しみをあらわしているのです、と。
民族の怒りねぇ。(冷笑)
民族という概念が五百年前にあったんですかね?
いささか冷たいことを言っているようですが、かつてこのような記述を目にしているせいでもあります。
・・・・・・・
「ハン五百年」は日本では「恨(ハン)五百年」と翻訳されることが多いようだ。また韓国人もあえてそれを放置する。「ハン」は「約」「およそ」の意で、数字の「ひとかたまり」を示す言葉だと考えたほうがよい。秀吉の侵略依頼五百年の「恨み」というのはこじつけで、双方の自罰他罰の衝動がからみあってまさに複雑な「文芸」をつくりあげているといえる。「ハン」を「恨」ととることも不可能ではないが、「恨」にはこの場合日本語でいう「うらみ」の意味はない。むしろ「希望」または「満たされない希望」のニュアンスがある。歌詞にも「五百年も生きたいのに」とある。「うらみ」なら「怨(ウオン)」または「怨恨(ウオナン)」のほうが適切である。
『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』(関川夏央 新潮文庫) P321
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>「祟り」と「鎮魂」のメカニズムということになるが、韓国の「恨」の文化にはこのわが国における鎮魂にあたるものがあるのであろうか。「恨」を鎮める文化装置はないのであろうか。
>いずれの場合も、祟りの肥大化を食い止めるための文化装置のように思うのだが、恨の社会にはそのような便利なものはないのであろうか。
山折さんらしくもない意見ですなー。
敗者の怨念である「祟り」と、朝鮮の「恨」は、敗者のルサンチマンという点で似てはいますが、祀ることによって善根に転化されうる日本の「祟り」と違って、朝鮮半島の場合、自分を負かした相手の全否定でしか、その「鎮魂」はなされないものでしょう。
つまり、祭祀という手段を介して敗者と勝者の妥協・和解が可能である日本と違い、あくまでも勝者を全否定して、己が勝者の位置に立つまで「恨」が解けない朝鮮(つまり、妥協・和解は無理)に、そんなものを求めるのはムダですよと。
だから何なの?知ったこっちゃねー!ですよ、ほんとに。恨みにしろ悲しみにしろ、他者に甘えて解決を求めてるだけですしー。(苦笑)
>この李御寧さんの説にふれて思い出すのが、80年代に来日して話題を呼んだ韓国人歌手、趙容弼(チョーヨンピル)さんのことだ。氏は「釜山港へ帰れ」や「木浦の涙」をうたって聴く者の魂をゆさぶったが、「恨五百年」という歌もうたっていた。そしてこう言っている、――この恨は韓国人の心の奥にある民族の怒りであるとともに悲しみをあらわしているのです、と。
民族の怒りねぇ。(冷笑)
民族という概念が五百年前にあったんですかね?
いささか冷たいことを言っているようですが、かつてこのような記述を目にしているせいでもあります。
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「ハン五百年」は日本では「恨(ハン)五百年」と翻訳されることが多いようだ。また韓国人もあえてそれを放置する。「ハン」は「約」「およそ」の意で、数字の「ひとかたまり」を示す言葉だと考えたほうがよい。秀吉の侵略依頼五百年の「恨み」というのはこじつけで、双方の自罰他罰の衝動がからみあってまさに複雑な「文芸」をつくりあげているといえる。「ハン」を「恨」ととることも不可能ではないが、「恨」にはこの場合日本語でいう「うらみ」の意味はない。むしろ「希望」または「満たされない希望」のニュアンスがある。歌詞にも「五百年も生きたいのに」とある。「うらみ」なら「怨(ウオン)」または「怨恨(ウオナン)」のほうが適切である。
『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』(関川夏央 新潮文庫) P321
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>「祟り」と「鎮魂」のメカニズムということになるが、韓国の「恨」の文化にはこのわが国における鎮魂にあたるものがあるのであろうか。「恨」を鎮める文化装置はないのであろうか。
>いずれの場合も、祟りの肥大化を食い止めるための文化装置のように思うのだが、恨の社会にはそのような便利なものはないのであろうか。
山折さんらしくもない意見ですなー。
敗者の怨念である「祟り」と、朝鮮の「恨」は、敗者のルサンチマンという点で似てはいますが、祀ることによって善根に転化されうる日本の「祟り」と違って、朝鮮半島の場合、自分を負かした相手の全否定でしか、その「鎮魂」はなされないものでしょう。
つまり、祭祀という手段を介して敗者と勝者の妥協・和解が可能である日本と違い、あくまでも勝者を全否定して、己が勝者の位置に立つまで「恨」が解けない朝鮮(つまり、妥協・和解は無理)に、そんなものを求めるのはムダですよと。
これは メッセージ 5002 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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