「青少年のための我が歴史の正しい見方」
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/10/02 00:25 投稿番号: [4551 / 7270]
このカテのイルさんや茶碗さんなんか、完全に「三田渡碑」をスルーですから、一部の若い人たちには漸く国際関係における朝鮮史が知られてきたという所でしょうか。
引き続き、李朝末の悲惨な国情と国際関係から日韓併合を勉強して欲しいと思います。
それと、韓国は現在も、「小中華」に毒されていることも。(笑)
でも、改めて韓国の学校での歴史教育は、バカを育てていることが認識できます。
なお、記事の『「丙子胡乱」(1936年)』は、1636年の誤植です。
-------------------------------------- -
ソウル発人&風:第54回 よみがえる?「対中/屈辱の碑」
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/korea/news/20060929org00m030093000c.html
ソウルの大型書店の歴史書コーナーに行くと、最近、中学・高校生向きの歴史概説本がたくさん並んでいる。韓国近現代史をめぐって、左右両陣営による論争が盛んになり、いきおい「若者向け」の入門書も増えたということらしい。
「青少年のための我が歴史の正しい見方」(2006年3月、誠信女子大出版部刊)
東亜日報と韓国国際政治学会が2004年秋、開催した「青少年歴史講座」の講義内容と質疑応答を単行本化したものだという。
講師陣は、韓国では一流と言えるメンバーぞろいだ。青少年向けのためか、とても分かりやすい。読んでみたら、とても面白かった。
「東亜日報」社屋 第1講は「19世紀末の韓半島と列強」。講師は嶺南大学のウ・チョルグ教授。フランスで博士号を取り、韓国国際政治学会の会長も務めた人物である。
「国際社会における韓国の現在の位置を正確に理解できるようにするのが、我々大人たちの義務だと思います」とウ教授。
読んでみると、ウ教授の講義内容は民族主義的な説明とは程遠く、おどろくほど客観的だ。
<アヘン戦争が起きるまで、伝統的に東洋の国際秩序は中華秩序に立脚した国際秩序と表現されてきた。中華秩序に立脚した国際秩序というのは、一言で言えば、中国中心の国際秩序と言える。(中略)>(12ページ)
<中華中心の国際関係の枠の中で、朝鮮王朝の外交方針は「事大交隣」だった。ここで「事大」とは、弟が兄に仕えるように、または臣下が王様に仕えるようにするという意味を内包している。しかし実際には、この事大の概念も力(POWER)をもとにした国際関係であるのは否定できない>(13ページ)
<なぜなら朝鮮と清国は三田渡条約を締結したためだ。三田渡条約は清国が朝鮮を征服する一つの征服条約だ(中略)>(同)
<中華秩序から近代国際法による秩序への変化が、朝鮮に与えた影響は何なのか考えてみよう。当時、中華秩序による朝鮮と清国の関係は、毎年、朝貢使節を送り冊封を受ける属邦関係にあった>(15ページ)
<しかし、中国が英国の近代的武器の前に敗北するのを見て、中国の力も限界に来た事実を朝鮮も認識し始めた(以下略)>(同)
キイワードは「事大交隣」「属邦関係」である。ここまで明確に朝鮮・清国関係を語る韓国人学者は、そう多くない。
講義を受けていた学生たちは、学校の授業では聞いたことのない歴史用語に当惑したらしい。講義の後、「三田渡(サムジョント)条約」をめぐって、こんな質疑応答が交わされた。
<さっき、清国と三田渡条約を結んだと言われましたが、その内容が気がかりです。(ソウルの)松坡区に行くと、清国と関係がある三田渡の大きな碑があります。それについてもご存知なのか、質問いたします>(32ページ)
三田渡条約は、清が朝鮮に侵攻した「丙子胡乱」(1936年)当時の史実だ。韓国の中学、高校歴史教科書では、以下のように書いてある。
「三田渡の碑」全景 <後金は勢力を強め、国の名称を清とかえ、朝鮮王朝に対して君臣の礼を要求して再び侵入し、漢陽を占領した。そのため仁祖は臣下とともに南漢山城に移り、45日間抗戦したが、ついに清の要求を受け入れて講和を結んだ。この戦争を丙子胡乱という(1936)>(国定韓国中学国史教科書、明石書店日本語訳201ページ)
つまり、三田渡条約そのものについての言及はない。だから韓国の中高校生は「三田渡条約」と言われても、よく分からないのだ。しかし、その一方で「三田渡の碑」があるのは知っている。彼らがウ教授の講義に戸惑ってしまったのも無理はない。
引き続き、李朝末の悲惨な国情と国際関係から日韓併合を勉強して欲しいと思います。
それと、韓国は現在も、「小中華」に毒されていることも。(笑)
でも、改めて韓国の学校での歴史教育は、バカを育てていることが認識できます。
なお、記事の『「丙子胡乱」(1936年)』は、1636年の誤植です。
-------------------------------------- -
ソウル発人&風:第54回 よみがえる?「対中/屈辱の碑」
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/korea/news/20060929org00m030093000c.html
ソウルの大型書店の歴史書コーナーに行くと、最近、中学・高校生向きの歴史概説本がたくさん並んでいる。韓国近現代史をめぐって、左右両陣営による論争が盛んになり、いきおい「若者向け」の入門書も増えたということらしい。
「青少年のための我が歴史の正しい見方」(2006年3月、誠信女子大出版部刊)
東亜日報と韓国国際政治学会が2004年秋、開催した「青少年歴史講座」の講義内容と質疑応答を単行本化したものだという。
講師陣は、韓国では一流と言えるメンバーぞろいだ。青少年向けのためか、とても分かりやすい。読んでみたら、とても面白かった。
「東亜日報」社屋 第1講は「19世紀末の韓半島と列強」。講師は嶺南大学のウ・チョルグ教授。フランスで博士号を取り、韓国国際政治学会の会長も務めた人物である。
「国際社会における韓国の現在の位置を正確に理解できるようにするのが、我々大人たちの義務だと思います」とウ教授。
読んでみると、ウ教授の講義内容は民族主義的な説明とは程遠く、おどろくほど客観的だ。
<アヘン戦争が起きるまで、伝統的に東洋の国際秩序は中華秩序に立脚した国際秩序と表現されてきた。中華秩序に立脚した国際秩序というのは、一言で言えば、中国中心の国際秩序と言える。(中略)>(12ページ)
<中華中心の国際関係の枠の中で、朝鮮王朝の外交方針は「事大交隣」だった。ここで「事大」とは、弟が兄に仕えるように、または臣下が王様に仕えるようにするという意味を内包している。しかし実際には、この事大の概念も力(POWER)をもとにした国際関係であるのは否定できない>(13ページ)
<なぜなら朝鮮と清国は三田渡条約を締結したためだ。三田渡条約は清国が朝鮮を征服する一つの征服条約だ(中略)>(同)
<中華秩序から近代国際法による秩序への変化が、朝鮮に与えた影響は何なのか考えてみよう。当時、中華秩序による朝鮮と清国の関係は、毎年、朝貢使節を送り冊封を受ける属邦関係にあった>(15ページ)
<しかし、中国が英国の近代的武器の前に敗北するのを見て、中国の力も限界に来た事実を朝鮮も認識し始めた(以下略)>(同)
キイワードは「事大交隣」「属邦関係」である。ここまで明確に朝鮮・清国関係を語る韓国人学者は、そう多くない。
講義を受けていた学生たちは、学校の授業では聞いたことのない歴史用語に当惑したらしい。講義の後、「三田渡(サムジョント)条約」をめぐって、こんな質疑応答が交わされた。
<さっき、清国と三田渡条約を結んだと言われましたが、その内容が気がかりです。(ソウルの)松坡区に行くと、清国と関係がある三田渡の大きな碑があります。それについてもご存知なのか、質問いたします>(32ページ)
三田渡条約は、清が朝鮮に侵攻した「丙子胡乱」(1936年)当時の史実だ。韓国の中学、高校歴史教科書では、以下のように書いてある。
「三田渡の碑」全景 <後金は勢力を強め、国の名称を清とかえ、朝鮮王朝に対して君臣の礼を要求して再び侵入し、漢陽を占領した。そのため仁祖は臣下とともに南漢山城に移り、45日間抗戦したが、ついに清の要求を受け入れて講和を結んだ。この戦争を丙子胡乱という(1936)>(国定韓国中学国史教科書、明石書店日本語訳201ページ)
つまり、三田渡条約そのものについての言及はない。だから韓国の中高校生は「三田渡条約」と言われても、よく分からないのだ。しかし、その一方で「三田渡の碑」があるのは知っている。彼らがウ教授の講義に戸惑ってしまったのも無理はない。
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/4551.html