Re: >アメリカのアジア理解というのは、
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/05/15 20:57 投稿番号: [4014 / 7270]
>日本に来ているアメリカ人で「実学」(金融とか証券とか)に従事してる連中は結構日本語ができるのですが(どこまで読めるかは別にして)、社会科学、歴史学などの連中はあまりできませんね。で、頼るのは英訳された日本の資料だけ。
なるほど。
アメリカの日本学は相当に優秀な人たちで始められたのに、最近の日本人(文化)論が経済分野に偏り、面白い本が出てこないのもうなづけますね。
職場によっては、英語のできる日本人も多いですから、日本語会話学校からさほど進歩しないでしょう。よほど努力しないと。
漢字も中国語と違う所がありますし、相当な障害になっているでしょうね。
もっとも、日本の近くにあって韓国人が日本を少しも理解していない点を考えると、仕方ありませんが。(苦笑)
「太平洋の生還者」上前純一郎著より。
『アメリカ海軍日本語学校は、各地から優秀な学生を選抜して短期間で集中的に日本語を教えた。P・B・K(ファイ・ベータ・カッパ)という学業成績抜群、知能指数の高い学生たちだけが入会を認められる全国的組織があって、選考の対象になるのはその会員であった。ドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカー、マリアス・ジャンセン、フランク・ギブニーといった人たちが、この日本語学校の出身である。
開戦時、日系人を別にして、日本語の読み書き、会話ができるアメリカ人はせいぜい十人、多くても五十人を超えていなかったといわれる。一日十数時間の授業を課し、一年前後で日本語専門家の速成を目標にしたこの学校は、二千人近い卒業生をもった。』
『ニミッツ司令部は、サイパンの民間人を積極的に救出することに方針を決めた。兵士もできるだけ救おうということになった。投降勧告ビラがその一つの方法である。ただ、そんなものを書く日本人はハワイ(注:日本兵捕虜収容所)にはいない。手伝ったのは朝鮮人であった。そのために、日本語になりきらず、反感しか呼ばないようなビラになった。』
『ニミッツ情報部には、日本語を勉強したが日本人と話したこともない将校が二百人ほどいた。その誰を、どの捕虜に会わせれば効果が多いか、調整したのがオーテス・ケーリ中尉であった。特に成績が優秀で、日本語学校を主席で卒業したドナルド・キーン中尉には、インテリの捕虜を会わせるようにした、とケーリは語っている。』(注:ケーリの祖父は同志社大学で神学を講じ、父は宣教師。ケーリは小樽で小学校四年生まで日本人学校に通っていた。)
『日本語学校を卒業してきた優秀な情報将校たちには、読解力ならかなりある。とりわけ漢字に興味を持つことから中国語、ひいては日本語の世界に入っていったドナルド・キーン中尉の場合がそうで、中尉は情報部文書班の優秀なスタッフであった。』
『オーテス・ケリーは同志社大学米国史教授、ドナルド・キーンはコロンビア大学日本学教授となる。』
なるほど。
アメリカの日本学は相当に優秀な人たちで始められたのに、最近の日本人(文化)論が経済分野に偏り、面白い本が出てこないのもうなづけますね。
職場によっては、英語のできる日本人も多いですから、日本語会話学校からさほど進歩しないでしょう。よほど努力しないと。
漢字も中国語と違う所がありますし、相当な障害になっているでしょうね。
もっとも、日本の近くにあって韓国人が日本を少しも理解していない点を考えると、仕方ありませんが。(苦笑)
「太平洋の生還者」上前純一郎著より。
『アメリカ海軍日本語学校は、各地から優秀な学生を選抜して短期間で集中的に日本語を教えた。P・B・K(ファイ・ベータ・カッパ)という学業成績抜群、知能指数の高い学生たちだけが入会を認められる全国的組織があって、選考の対象になるのはその会員であった。ドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカー、マリアス・ジャンセン、フランク・ギブニーといった人たちが、この日本語学校の出身である。
開戦時、日系人を別にして、日本語の読み書き、会話ができるアメリカ人はせいぜい十人、多くても五十人を超えていなかったといわれる。一日十数時間の授業を課し、一年前後で日本語専門家の速成を目標にしたこの学校は、二千人近い卒業生をもった。』
『ニミッツ司令部は、サイパンの民間人を積極的に救出することに方針を決めた。兵士もできるだけ救おうということになった。投降勧告ビラがその一つの方法である。ただ、そんなものを書く日本人はハワイ(注:日本兵捕虜収容所)にはいない。手伝ったのは朝鮮人であった。そのために、日本語になりきらず、反感しか呼ばないようなビラになった。』
『ニミッツ情報部には、日本語を勉強したが日本人と話したこともない将校が二百人ほどいた。その誰を、どの捕虜に会わせれば効果が多いか、調整したのがオーテス・ケーリ中尉であった。特に成績が優秀で、日本語学校を主席で卒業したドナルド・キーン中尉には、インテリの捕虜を会わせるようにした、とケーリは語っている。』(注:ケーリの祖父は同志社大学で神学を講じ、父は宣教師。ケーリは小樽で小学校四年生まで日本人学校に通っていた。)
『日本語学校を卒業してきた優秀な情報将校たちには、読解力ならかなりある。とりわけ漢字に興味を持つことから中国語、ひいては日本語の世界に入っていったドナルド・キーン中尉の場合がそうで、中尉は情報部文書班の優秀なスタッフであった。』
『オーテス・ケリーは同志社大学米国史教授、ドナルド・キーンはコロンビア大学日本学教授となる。』
これは メッセージ 4013 (kuuboakagi00 さん)への返信です.
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