>善悪抜きのクールな解説
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/13 02:25 投稿番号: [3181 / 7270]
>「新しい歴史教科書」より過激?(笑)
これで過激ですと生物だの地学だのの教科書は発行できないことになりますです(笑)
ちなみに「新しい〜」は(今年度版は見ていないので判りませんが)前回のは文章が情緒的に過ぎる気がしていました。
>「中華思想がけっして軍事的な色彩をもたず」とは言えないでしょう。
西洋の「軍事的な色彩」に比べて「文明の感化力に信頼をおく思想であった」ってことかも・・(苦しい)
>中原の軍事的覇権を握った者が中国となり、その周辺国を軍事的に脅迫し続けていたのですから。
う〜ん(年表ながめて考え中)「文明の感化力に信頼をおく思想〜」・・・と
隋・唐・(五代十国)・宋(北宋・南宋・金・西夏)・元・明・清と変遷しています。
前代の王朝を追いやった勢力は攻めた時点では「蛮族」で、覇権を握った時点で(あるいは覇権を握る条件として)
中華思想に染まっていったのでは?(平安時代、平家が公家風に染まったように)
> ペリーは空砲を撃ったりして脅迫していますが、町人は黒船見物目当ての屋台まで出て、のんびりしたものです。
>そして日米交渉も殺気立ったものではありません。
ということは、当時の「軍事的な恫喝」はその程度(ペリーの黒船)のものが一般的な事例だったのでしょうか?
ならば「帝国主義列強の軍艦外交」の「恫喝」イメージを改めなければなりません。
(航海も長いしなあ、海賊も出たかもしれんし・・護身用拳銃程度の感覚の装備だったのかな)
>江戸中期からは蘭学を通じて、西洋の優れた文明、文化、学問の存在を知ることになる
枝葉ですが、西洋のものを東洋(主に中国)と比べてはじめから優れていると思ったかはいささか疑問に感じています。
(唐・天竺以外の文化・文明への好奇心とか、単に新しもの好きとか・・軽過ぎますか)
アヘン戦争で 「西洋>中華」 が目に見えるようになり、
その後の朝鮮との外交交渉で中華思想の実態を身をもって体験する・・・と、嫌気も差しましたでしょうね。
↓「明治開化期の日本と朝鮮1」
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html
__________________________________
〜略「朝鮮の対日交渉術」
当時の朝鮮との交渉の記録を読むと非常に興味深い。(公文別録・朝鮮事件 公文別録・朝鮮始末 公文別録・朝鮮尋交始末、その他)
日本側は繰り返し繰り返し何度も何度も話し合いを進め、朝鮮側に配慮して文章を変更したりしている。
これがまた半端な数ではないのである。当時の史料を見ると、書き直しにつぐ書き直し、案件につぐ案件、印章も作り直したり、どの文章がいつの書契なのかよく分からないような量と手数の多さなのである。書記官たちは同じような文章をいったい何度書かされたのか、実に同情にたえない。
しかし日本側のそのような譲歩にもかかわらず、朝鮮側は断固受け取り拒否なのである。なんと明治元年から7年経っても!。
朝鮮の外交官僚の態度は日本人から見るとたいへん不誠実に見える。まるで、嘘・ごまかし・公私混同の弁明・仮病・突然の前言翻し、など虚々実々の駆け引きのオンパレードである。それに対して、日本側はというと、ただひたすら辛抱強く粘り強く正論をもって交渉している。その姿はまあ馬鹿正直なほどである。そこには日朝の文化の違いすらが感じられてある意味面白い。〜略
__________________________________
>結局、その気概が持てない朝鮮のために中国と戦い
二月程前のテレビ番組で(一部しか見れませんでしたが)「日清・日露戦争後、一般の日本人が中国・朝鮮人を嫌うようになった〜」というようなことを話していました。
戦役で大陸に行った庶民の日本人は、当時の中国・朝鮮の庶民の振る舞い(番組では「ものの食べ方とか〜」といってました)を見て
中華への尊敬が軽蔑に変わったらしいです。
日本は当時の欧米と比較しても相当な「きれい好き」だったしなあ、まあ、軽蔑するなといっても、難しかったかもしれませんね。
これで過激ですと生物だの地学だのの教科書は発行できないことになりますです(笑)
ちなみに「新しい〜」は(今年度版は見ていないので判りませんが)前回のは文章が情緒的に過ぎる気がしていました。
>「中華思想がけっして軍事的な色彩をもたず」とは言えないでしょう。
西洋の「軍事的な色彩」に比べて「文明の感化力に信頼をおく思想であった」ってことかも・・(苦しい)
>中原の軍事的覇権を握った者が中国となり、その周辺国を軍事的に脅迫し続けていたのですから。
う〜ん(年表ながめて考え中)「文明の感化力に信頼をおく思想〜」・・・と
隋・唐・(五代十国)・宋(北宋・南宋・金・西夏)・元・明・清と変遷しています。
前代の王朝を追いやった勢力は攻めた時点では「蛮族」で、覇権を握った時点で(あるいは覇権を握る条件として)
中華思想に染まっていったのでは?(平安時代、平家が公家風に染まったように)
> ペリーは空砲を撃ったりして脅迫していますが、町人は黒船見物目当ての屋台まで出て、のんびりしたものです。
>そして日米交渉も殺気立ったものではありません。
ということは、当時の「軍事的な恫喝」はその程度(ペリーの黒船)のものが一般的な事例だったのでしょうか?
ならば「帝国主義列強の軍艦外交」の「恫喝」イメージを改めなければなりません。
(航海も長いしなあ、海賊も出たかもしれんし・・護身用拳銃程度の感覚の装備だったのかな)
>江戸中期からは蘭学を通じて、西洋の優れた文明、文化、学問の存在を知ることになる
枝葉ですが、西洋のものを東洋(主に中国)と比べてはじめから優れていると思ったかはいささか疑問に感じています。
(唐・天竺以外の文化・文明への好奇心とか、単に新しもの好きとか・・軽過ぎますか)
アヘン戦争で 「西洋>中華」 が目に見えるようになり、
その後の朝鮮との外交交渉で中華思想の実態を身をもって体験する・・・と、嫌気も差しましたでしょうね。
↓「明治開化期の日本と朝鮮1」
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html
__________________________________
〜略「朝鮮の対日交渉術」
当時の朝鮮との交渉の記録を読むと非常に興味深い。(公文別録・朝鮮事件 公文別録・朝鮮始末 公文別録・朝鮮尋交始末、その他)
日本側は繰り返し繰り返し何度も何度も話し合いを進め、朝鮮側に配慮して文章を変更したりしている。
これがまた半端な数ではないのである。当時の史料を見ると、書き直しにつぐ書き直し、案件につぐ案件、印章も作り直したり、どの文章がいつの書契なのかよく分からないような量と手数の多さなのである。書記官たちは同じような文章をいったい何度書かされたのか、実に同情にたえない。
しかし日本側のそのような譲歩にもかかわらず、朝鮮側は断固受け取り拒否なのである。なんと明治元年から7年経っても!。
朝鮮の外交官僚の態度は日本人から見るとたいへん不誠実に見える。まるで、嘘・ごまかし・公私混同の弁明・仮病・突然の前言翻し、など虚々実々の駆け引きのオンパレードである。それに対して、日本側はというと、ただひたすら辛抱強く粘り強く正論をもって交渉している。その姿はまあ馬鹿正直なほどである。そこには日朝の文化の違いすらが感じられてある意味面白い。〜略
__________________________________
>結局、その気概が持てない朝鮮のために中国と戦い
二月程前のテレビ番組で(一部しか見れませんでしたが)「日清・日露戦争後、一般の日本人が中国・朝鮮人を嫌うようになった〜」というようなことを話していました。
戦役で大陸に行った庶民の日本人は、当時の中国・朝鮮の庶民の振る舞い(番組では「ものの食べ方とか〜」といってました)を見て
中華への尊敬が軽蔑に変わったらしいです。
日本は当時の欧米と比較しても相当な「きれい好き」だったしなあ、まあ、軽蔑するなといっても、難しかったかもしれませんね。
これは メッセージ 3174 (trip_in_the_night さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/3181.html